無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8030日 カティーサークの思い出

この2月から夕食後自室で一人でウィスキーを飲むようになった。この歳になるまでウィスキーがうまいと思ったことはなかったが、なかなかどうしてその旨さに引き込まれてしまった。かなり前に女房の実家でもらった、半分ほど残っているオールドパーから飲み始めたが、古いウィスキーを飲んでいいのかどうか多少不安があったのでネットで調べてみると、ウィスキーには食品衛生法上の賞味期限と言うものはないらしい。飲んでみて旨ければOKと言うことだろうと理解した。

これを一週間ほどで飲み干して、外国航路の機関長をやっていた友人から貰ったシーバスリーガル12を開封した。ちびりちびりと飲むだけでそんなに量を飲むわけではないが、毎晩飲んでいると夕食時に晩酌を楽しんでいた父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしてくる。これもそろそろ無くなりそうなので、昼過ぎにチョコザップからの帰りに酒屋に寄ってカティーサークを買った。

これには50年前にニューヨークのバーで飲んだ思い出があった。機関当直の相方だった操機手の菊池さんと二人で通船で上陸し、地下鉄でマジソンスクウェアガーデンまで行った。当時の地下鉄は物騒だと聞いていたのでおっかなびっくりだったが、乗ってみればそれほどでもなく難なく目的地に着くことができた。

それからのことはよく覚えてないが、大きなビルにあった雑貨店に入り日本円で5万円程したパーカーの万年筆を購入した。小便をしたくなって店員にトイレの場所を聞くと、店の奥から鍵束を持って連れて行ってくれた。そしてトイレの鍵を開けて出てくるまで前で待っていて、終わるとまた鍵をかけた。そこまでやるのかと驚いた。

それからぶらぶら歩いていると、敷居の高そうなポルノショップの隣に、中が見える入りやすそうなバーがあり、ちょっと一杯飲んでいこうかと二人で入った。長いカウンターがあって中にバーテンダーがいるという西部劇なんかでよく見る形式で、テーブル席には客がいたがカウンターには誰もいなかった。座るとバーテンダーがやって来て注文を聞いたが、さて何を注文したらいいのかさっぱりわからない。菊池さんをみると棚に並んだ瓶をしばらく眺めたあとで一言「CUTTY SARK」と言った。

菊池さんは私より5歳くらい年長で、体も大きくいい声をしていた。この時の「CUTTY SARK」は今でも耳に残っている。その声に救われた思いがした。ショットグラスにつがれたストレートのカティーサークをどのように飲んだのかはよく覚えてない。

昼間買ったカティーサークを、時間をかけて少しずつ飲んでいるとウィスキーの香りとともに当時のことがいろいろ思い出されてくる。一度川越に住んでいた菊池さんの家にお邪魔したことがあった。買ったばかりの愛車「いすゞ117クーペ」で川越市駅まで迎えに来てくれた。Winstonのヘビースモーカーだったから元気でいるのだろうかと気にはなるが、今となっては探すすべはない。今後カティーサークを飲むたびに思い出すことになるだろうから、忘れることはないだろう。

あと8031日 嘔吐下痢症顛末記

あの新型コロナにも罹らなかったのに、春分の日に遊びに来た4歳の孫のH君の嘔吐下痢にはいとも簡単にやられてしまった。コロナ収束とともに警戒心が緩んでいたのかもしれない。H君の長いトイレに、腹の調子が悪いのかなとは思ったが、本当はその時に次に起こるかもしれない現象に気づくべきだった。

ようやくトイレから出たH君は、ソファに座った途端に口と鼻から昼食べたものをすべて、カーペットとソファの上にぶちまけた。これは嘔吐下痢症間違いないと気が付いた。その時すぐにマスクと手袋をすればよかったんだが、そんなことはすっかり忘れていた。これがコロナだったらもっと緊張したはずだ。

近所のドラッグストアで買ってきたハイターを希釈して消毒液を作り、床やトイレやH君の触れたところを拭いて回った。カーペットは女房と二人で担いで車庫に広げ、水で洗い流した。その後消毒液を吐瀉物のあった部分にかけて、もう一度水で洗い流した。これを3回ほど繰り返した。

それを干そうとしたが水を吸い込んだカーペットは重くて持ち上がらない。二人でずるずると引きずって塀の上にかけ、そのままにして乾くのを待つことにした。これで一連の作業はひとまず終了した。これで終わればめでたしめでたしだったのだが、そうは問屋が卸さなかった。

それから約48時間後の22日のことだった。夕食がすんで椅子から立ち上がろうとしたとき、突然得体のしれない倦怠感を感じてそのまま傍のソファに座り込んでしまった。独居高齢者宅の点灯確認に回らなければいけないのに、立ち上がる気力もわかない。嘔吐下痢症の潜伏期が1~2日だからウィルス感染間違いなしだが、こんなに突然やって来るものなのかとちょっと驚いた。

これからのち約72時間寝込むことになるが、病気で寝込むのは仕事を辞めた64歳の時のインフルエンザ以来だった。コロナに感染しなかったことでウィルスの脅威をなめていた。当のH君は2日後には遊びに来るというので親に様子を聞くと、まだ下痢は残っているので便にウィルスがでるが、それを気をつければ問題ないとのことだった。

こちらはまだ起きられないのに、子供の回復は早い。問題ないと言われても、来てほしくはないが、かといって来るなとも言えないし、これには弱った。そうこうしているうちに当日となったが、幸いにもその日が大雨で遊びに来る話は取りやめとなった。この時ばかりは本当にほっとして雨に感謝した。

あと8033日 スズメの死んだ瞬間

死の瞬間は生き物には必ずやってくるもので、生きとし生けるものは誰もそれをさけることはできない。しかしその瞬間に立ち会う機会は、医者でもなければそうそう多くはない。私自身生きてきた72年間で、実際に死の瞬間を見たのは父と犬の小太郎の2回しかなかった。

人の死の場合、死んだあとは看護師や葬儀屋の皆さんがやってくれるので、遺体に触れることはないのでわからなかったが、死んだら体がどのようになるのかということを実感したのは小太郎の時だった。

息を引き取った小太郎を抱き上げた時、その温かく柔らかく脱力した体が私の腕の中に安心しきったようにもたれかかり、「小太郎」と呼んだらまた息をしだすのではないかと思わずにはいられなかった。

先日、ヤマト運輸の配達員が持ってきた荷物を受け取っているときに空から何かが降って来た。驚いて足元を見るとスズメが一羽落ちている。すぐ上の電線から落ちてきたようだが、ほんの1秒か2秒前まで生きて電線にとまっていたと思うと不思議な気がした。

鳥インフルエンザ感染の可能性もあるのでちょっとためらったが、しゃがんで顔を近づけてよく見ると、片眼をうっすらと開けてまるでこちらを見ているようだ。そっとつまんで掌に載せた。羽もきれいで老齢のようにもみえない。ぴくりとも動かないのでん死でいるのは間違いないが、体はまだ温かく柔らかく脱力して、まるで生きているようだ。

ゆすったら目を覚まして飛んでいきそうだ。ひょっとしたら目を覚ますかもしれない。そんなことを考えながらしばらく眺めているうちに、最後に小太郎を抱き上げた時の感覚と、その時のどうしようもない悲しさが蘇ってきた。

するとそれまで何の関係も無かったはずの、掌に横たわっている失われた小さな命が急に愛おしく感じられた。スズメとはいえ、生まれて一生懸命生きて死んでいくことに変わりはない。うちの家の前で死んだのも何かの縁に違いない。猫に食べられることが無いよう袋に入れて硬直するのを確認して処理をしておいた。

一度感情移入を許すと死はいつも悲しくなる。

あと8061日 夕日に染まる瀬戸内海

2日に一回チョコザップで運動をして、それ以外の日は城山に登って夕日の写真を撮るか、或いは天神山に登っていたが、天神山方面は頻繁にイノシシと出会うようになりしばらく休んでいる。せっかくダニ対策として長靴を購入したのに残念だが仕方がない。去年と一昨年は一度も出会ったことはなかったので、勝手に夜行性だと思って安心していたが昼も活動するようだ。

昨日2024/2/27で277回登った城山は賤ケ岳7本槍のひとり加藤嘉明が築城したもので重要文化財になっている。70年間当たり前の光景としてこの城を見上げてきたが、大人になって他の町を見るようになると、古い城をもった城下町としてのすばらしさに改めて気が付くようになった。

姫路城、和歌山城と並んで日本三大連立式平山城に選ばれている松山城は海抜120mの山頂にあって、そこから眺める瀬戸内海に沈む夕日の写真を撮っている。2022年6月7日から始まった写真撮影だが、2022年11月25日、86回目の登山の時に海を黄金色に、空を赤く染めてこの世の物とは思えない光景が出現したことが一度だけあった。その時の一枚をこのブログに使っている。その後、昨日までに191回登っているがその光景に出会ったことはない。

多島海と言えば松尾芭蕉も憧れた東北の松島が有名だ。私も10年ほど前に尋ねたことがあるが箱庭のような美しさがあった。しかし瀬戸内の多島海は松島とはスケールが違う。船でどこまで走っても周囲に島影が見える光景を外国人が見たら、海ではなく河だと感じるのではないだろうか。半世紀前にカルカッタへと遡ったインドのガンジス川下流とスケール的には変わらないような気がしている。

山頂でベンチに座ってそんなようなことを考えながら、猫の島で有名になった青島やその先にある九州国東半島、周防大島を赤く染めながら沈んでゆく夕日をぼんやりと眺めていると、城下町は大きく変わってしまったが、海も島も夕日も400年前に加藤嘉明が眺めたのと同じものを、今を生きる我々もゆったりと眺めていることができるということがほんとうに有難く思えてくる。

夕焼けは懐かしき色瀬戸の海

あと8062日 地震で考えたこと

本日2月26日15時24分頃愛媛県南部を震源とする震度4の地震が発生した。ちょうどその頃チョコザップからの帰りで、中央消防署の前あたりを歩いていた。突然スマホ緊急地震速報が鳴り始めるとともに、近くのスピーカーから緊急放送が流れた。スマホを取り出して確認する時に、正月に見た能登地震で地面が揺れ動くシーンを思い出して一瞬身構えたが、信号機も揺れてないし、立ち止まった人もいない、車も普通に走っている。

こんな空振りもあるのかと思いながら消防署を見ると、5~6人の署員が忙しそうに電話をかけていたから、揺れたことは揺れたんだろうが出動する気配はない。何事も無くて良かったと家に帰ってみて驚いた。女房が言うには2回揺れがあり、1回目は大したことはなかったが、2回目のは以前の芸予地震とかわらないくらい大きな揺れで、勝手口や窓を開けて3回目に備えていた。

自分の部屋がどうなっているのか確認に行ってみると、積んであった本が散乱していたし、鴨居に置いてあったものが落ちていたからかなり揺れたのかもしれない。地震の揺れは場所によって違うとはいえ、これほどだとは思わなかった。余震があるのかと心配していたが今のところその兆候はないようなのでほっとしている。

我が家は構造計算をして建てられているので一度の地震で倒壊することはないだろう。また、この地区の指定避難先の中学校には緊急用の水源も確保されているので、圧死や焼死を免れて命があればなんとかなりそうだ。

しかし自分自身は全く揺れを感じなかったので完全に忘れていたが、もし能登のような地震だったとしたら、地域の高齢者障碍者の避難誘導に関する民生委員のマニュアルを実行することになるが、何もできそうにないということに気が付いてぞっとした。東日本大震災では避難誘導にあたった民生委員が逃げ遅れて亡くなるということがあり、それが原因でまずは自分の安全確保が第一と改められたが、そうは言っても大地震がきたらどうするのか悩ましいところだ。

何と言っても一番の問題は瀬戸内に面して、温暖風光明媚で災害の少ないこの地方に住む人の危機感の無さであることは間違いない。民生委員も含めて役人も南海地震がいつかは来るとは思っていてもそれに対して具体的に訓練をするということはしない。文書にあれこれしなければならないことを書いていたとしても、実際に人が動いて確認しなければ緊急時に対応することはできないだろう。

昔海自関係者から聞いた話だが、海上自衛隊ヘリの乗員は、夜間墜落して水中で機体が逆さまになっても脱出できるように、それと同じ状況を作って訓練をしている。だからどんな状況でも乗組員は脱出できるが、たまたま乗っていたお客さんは気の毒だが逃げられないだろう。緊急時に役立つのは頭ではなく体がお覚えていることだけだ。というような話だった。

自衛隊ほどではないにしても、民間でも緊急時に何かやらなければならないとしたら、平時にせめて一度くらいは実際にやってみておかないと、あれこれマニュアルを作成しても絵に描いた餅となってしまうだろう。

あと8063日 スマホ機種変更

最近スマホの動きが悪くなりイライラすることが多くなったので、ここらで機種変更をしてみようかと思い立ち、どれにしようかといろいろ検討してみた。スマホに10万もかけるだけの財力が無いのは勿論だが、自分の使い方だとそれほどいいものは必要ないということはよくわかっている。

今利用しているMVNO日本通信「合理的シンプル290プラン」というやつで、最大1GBとなっているが契約以来一度もそれを超えたことがない。なんと先月なんかは150MBだった。通話はViver、Signalで済ませているし、固定電話にかけるときはBrastelを使っているから、日本通信には毎月293円しか払ったことがない。

本当に毎月293円しか払わないような貧乏人を相手にしていて商売になるのだろうか?と明細メールが来るたびに考えてしまう。株価は211円、無配当で昨今のフィーバーも蚊帳の外。それでも平均年収が39.2歳6,980千円となっているから特に低いというわけでもない。慈善事業ではないので勝算はあるのだろうから、住民税均等割り世帯の食うや食わずの年金生活者が心配することもあるまい。

そんなに使わないのならスマホなんか持つことないだろうとよく言われるが、それはまた少し話が違う。第一スマホが無ければチョコザップも利用できないし、銀行も証券もアマゾンヨドバシ、スシロー予約......すでにスマホなしでは生活できなくなってきている。とにかく便利なものであることは間違いない。

さて機種変更しようと実際に探してみると、日本企業だったarrowsもレノボ傘下になったようで日本企業としてはソニーしかないという状況には驚いた。そこでエクスペリアに絞ってムスビーで2万円以下の新品を探してみると、18800円でACE3というのが見つかった。スペック的にも今のような使い方なら問題ないようなので注文したが、まことに寂しい限りだ。日本企業にも頑張ってもらいたいものだ。

あと8090日 イノシシ現る

一昨年の5月に続いて、去年の3月にマダニに咬まれて以来、千秋寺山登山はやめにして電動アシスト自転車を乗り回したり、城山に登ったりしていたがやっぱり自然の中で里山登山もしてみたいと思うようになった。

ダニに咬まれるのはこりごりなのでいろいろ調べてみたら、ダニ対策としては長靴がいいという記事を見つけた。すぐにネットで長靴を探してみたが、やはり靴は履いてみないとわからない。近所のホームセンターに行って1980円のを購入した。

その日にさっそくその長靴を履いて千秋寺山に登ってみると、ちょっと格好悪いとはいえ、これがなかなか具合がいい。滑らないし、砂も入らない、地面が濡れていても大丈夫。ダニ除けスプレーを吹きかけておけば完ぺきではないか。これでマダニは大丈夫と安心した。

今日もチョコザップで午前中1時間ほど運動した後、長靴を履いて山に向かった。天気も快晴で気温も11度あり気持ちよかった。千秋寺山頂上から天神山に向かう山道を赤木圭一郎三橋美智也三波春夫島倉千代子などの歌を大音量で聞きながら、鼻歌交じりに歩いていると、すぐ横の藪の中でガサガサ音がした。

一瞬立ち止まったが鳥でもいるのかと気にもせずに2,3歩進んだ時だった。真っ黒な山のような物体が藪から飛び出してきて山道を横切って反対側の藪の中に飛び込んだ。これにはビビった。どう見てもまるまると太った子牛ほどもあるでっかいイノシシだ。こんなにでかいイノシシを見たのは初めてだった。

もともとイノシシがいることは知っていたので、驚きはしたがまあ行ってしまえば大丈夫だろうと5mほど歩いた時、再び左の藪の中でガサガサ音がしたかと思うと、今度は小さな瓜坊が飛び出してきてさっきのイノシシの後を追っていった。親子で餌を探していたのだろう。

親が子を残して自分だけ逃げるとは考えられないので、先に走っていった親のイノシシはどこかでこちらを見ていたに違いない。子連れの熊は危ないと言われるように子連れのイノシシも危ないのではないかと急に心配になって来た。イノシシが襲ってきてもトレッキングポールがあれば戦えるだろうなどと安易に考えていたが、実際に目の前で見ると、あの質量の物体が突進してきたら何の役にも立たないだろう。

去年出会ったタヌキは丸い目をしてかわいかったが、イノシシは目を合わしたいとも思わない。くわばらくわばら、踵を返して大急ぎで下山した。

家に帰って調べてみると、対策としては本来イノシシは臆病な動物で、自分や子供を脅威から守るために襲ってくるので、脅威を与えないように、先にこちらの存在を教えるというのが有効らしい。今回は大音量の赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでいる」がその役目を果たしたということだろうか。

初めての経験でかなりビビったが、これに懲りずこれからも山歩きを楽しみたい。