無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10618日

 女房と娘が一緒にUQmobileに変更してから、女房も娘に教えられてラインを始めてしまった。女房が始めたので、今ではわし以外の親族はみんなラインでやり取りしている。長男と娘は、わしが頼んでwhatsappをインストールしてもらっているが、普段使わないので確認する事もないようだ。たまにわしが送信しても、返事がなかなか返ってこないので、もう一度『whatsapp見た?』と、メッセージを送らなくてならないことが多い。結局3円が無駄になるわけだ。兄貴にも去年の暮れにインストールしてもらって、ビデオ通話なんかで遊んだんだが、その後ご無沙汰している。兄貴のwhatsappの最終接続をみると2017/01/14となっているから、どうもあれ以来接続したことないようだ。whatsapp、日本では人気無いな。

 そんなわけで、今の日本ではラインを使わないと、極端な話、家族間の意思疎通も困難になるという、困った状態になっているようだ。ネット上でも似た様な話はよく見かける。安全保障面でも、一社だけに集中する のは危ないんじゃないかと思うんだがな。電話やメッセージのように、通信会社関係無しに使えるようにならんのかなとは思うが、そうもいかんのだろう。しかたがないので、わしも昼にラインをインストールして、使えるようにしといた。

 わしは40歳くらいからパソコンを使うようになり、簡単なソフトやcgiなんかを書いて遊んでいた。インターネット黎明期、ohio州立大学かどこかで作っていた、Home-PagePublisherというのを真似したもので、HomePage Creatorという、アップルスクリプトで書いたcgiは、30k制限はあったがストレージを解放して、最盛期は主にアメリカからだが、30人位の人がホームページを作っていた。その中の1人は狩猟が趣味というウィスコンシン州の人だったが、日本に旅行に来た時、広島で会ったことがある。その頃はメールといってもtextしか送れなかったので、どんな人かもわからなかった。待ち合わせのホテルのロビーで、前に座っている人がそうかなと思ってもなかなか声をかけられない。後から聞くと向こうも同じだったようだ。かれこれ10分位、お互い声をかけてみようかなと思いながら、ずっと真向かいに座っていたのを知って、あとで大笑いをしたんだが、インターネットが特別な存在だった頃は、いろいろ面白いことがあったな。

あと10619日

 親父の生まれた村は、あまり裕福ではなかったが、親父の家は一応自作農だったので、村内ではまあまあのほうだったようだ。親父の父親(わしの祖父)なんかは、暗くなるまで田んぼで働いて、急いで晩飯を食べるとすぐに羽織に着替えて、村の世話をしていたらしい。伯父から聞いたことだが、戦後すぐに村の公会堂で集まりがあった時、少し金を持って羽振りの良かった若い連中に、祖父が「おまえら何を偉そうにいうとんじゃ。お前等が座っとる座布団も、机も、この公会堂も、お前等の親父は一銭も出しとらせんぞ。全部わしがだしたんじゃ。帰って親父に聞いてみろ。」と一喝したことがあったらしい。寺なんかも貧乏で、跡継ぎに資格をとらせる金もないので、祖父らが金を出し合って、資格をとらせたというようなこともあったようだ。貧乏なりに、みんなが助けあっていたんだな。

 そんな村からも中学校や商業学校、農学校に進学するものもいたんだが、経済的に大学まで行ける家は少なく、一番の秀才は海軍兵学校陸軍士官学校に進学していた。中には両方受かった人もいたようだ。10年ほど前まで町長をしていた人が、陸士海兵合格組だと知って、親父にY町長はすごいなと話した時、親父は「いいや、あの人はそんなでもなかった。ほんとうにすごかったのは、戦死したお宮の『あやおさん』よ。」と言った。あやおさんという人は、神社の長男で、頭脳明晰、運動抜群、性格温厚で親父等のあこがれだったそうだ。成績はM中学でもトップクラスで、鉄棒の大車輪を親父は初めて見たらしい。陸士海兵合格して、陸士に進学、その後、所沢の航空士官学校をでて、陸軍飛行第64戦隊、所謂加藤隼戦闘隊に所属し、ビルマのアラカン山脈付近で戦死、陸軍少佐という経歴だった。

 わしは気になって加藤隼戦闘隊について調べたことがあった。何冊か生き残った人が本を出しているが、昭和18年の夏くらいまでで話は終わっていて、あやおさんがビルマに渡った18年の暮れあたりのことを書いた本はなかった。諦めかけた頃、出張で東京に行った時、秋葉原ヨドバシカメラで、偶然イギリス人がビルマの空戦について書いた分厚い本を見つけた。ひょっとしたらと思って昭和18年の後半の段を見て行くうちに、とうとう相原あやお大尉という名前を発見した。それによると、愛機隼で、チッタゴン爆撃にむかった重爆の護衛についたが、途中エンジン不調のため未帰還ということだった。単機で引き返すが、出力低下で高峻なアラカン山脈を越える事ができず、自爆したんだろう。さぞかし無念だったろうな。

 今では、お宮のあやおさんと言っても、村内でも誰も知らないだろう。しかしわしは親父から聞いて、親父等が憧れた、あやおさんという素晴らしい人が、確かに存在したという事を確認できてうれしかった。

あと10620日

赤い靴はいていた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった。

横浜の港から船に乗って 異人さんに連れられて行っちゃった。

野口雨情のこの歌だったと思うんだが、うちに絵本があって、わしがそれを見ていたシーンを覚えている。幼稚園の頃だろう、昼間寝ていたので風邪でもひいて休んでいたのかもしれない。枕元にあった本には正面から見た、大きな客船が描かれていた。その絵の中に、赤い靴を履いた女の子がいたかどうか、はっきり覚えてないが、あと10812日で書いた『おうちわすれて』が出ていたのと、同じ本ではないかと思う。

 その時にわしも同じように正面から見た船を描こうと思って描いてみたが、何度描いても旨くかけなかった。遠近法がわからなかったんだろう。結局絵本の上に紙を置いて写し取ったが、出来上がった自分の絵を見て、同じように描けているので非常に驚いた記憶がある。こう書けば、写したんだから当たり前だろうと思うかもしれないが、そうではない。遠くを小さく書けばいいんだということに気が付いて驚いた。即ち遠近法というものをわずかながらも理解した瞬間だったと今でも信じている

 わしが幼稚園の頃の、冬の夕刻だと思うが、おふくろがわしら兄弟を本屋に連れて行ってくれたことがあった。通常わしらは繁華街に行く事を「まちに行く」と言っていたが、おふくろが「まちに行くよ。」と言って連れて行ってくれたのが、当時市内で一番大きかったH書店だった。兄貴はすぐに『日本史の光』という本に決まったが、わしはいつも通り、なかなか決められなかった。ほんとうは『アラジンと40人の盗賊』という絵本が欲しかったんだが、おふくろに、同じところに並んで売られていた『白菊物語』を薦められた。迷った挙句、おふくろの言う通り『白菊物語』を買って帰ったが、あまりうれしくなかった。

 昔の子供は文字を覚えるのも遅かったんだろう。自分ではうまく読めなかったから、家に帰っておふくろに読んでもらった。なんか悲しい話だったが、その後、何回も自分で読み返していたのを覚えているから、結局、面白かったんだろうな。兄貴が買ってもらった『日本史の光』も小学生になってから読んだが、血湧き肉踊ったな。乃木大将の水師営の会見の場面等、何回も読み返して、今でも挿絵付きで覚えている。

 これらの本も昭和43年に家を改築するまではあったはずなんだが、子供等に読ませようと思ってさがしたが見つからなかった。うちの親は、余裕もなかったんだろうが、あまり本は買ってくれなかった。しかし、たまに買ってくれた本は、良い本だった。

あと10621日

 わしらの年代が卒業する頃はまだまだ景気も良くて、船会社の求人もたくさんあったみたいだ。みたいだというのは、わしは学校の振り分けに加わらず、就職先は自分で勝手に決めたために、就職争いに全く参加してないので知らなかった。しかも、2年で船乗りをやめたので、40代半ばくらいで同窓会をやるようになり、そこに参加して初めてみんなの就職先を知るようになった。船会社も大手から中小まであるが、半数近くが大手、準大手といわれる会社に就職していたのでびっくりした。大手にいった顔ぶれをみると、振り分けに参加していたら、わしも大手に行けたようだったな。その後の不景気で、大手といえども安泰ではなかったが、それは仕方が無い。

 わしは東南アジアとカリブ海に定期航路を持っていた小さな会社に就職したんだが、あまり洗練された会社ではなかった。もちろんわしも自己中の変な奴ではあったが、船内はあまりしっくりいかなかったな。しかし乗船したカルカッタ定期航路、これは面白かった。大手に行った連中の話を聞いても、ほとんどがバケツみたいな専用船の話で、5000トンの貨物船で、一つの港に1週間も停泊するような航海は経験してないようだった。面白かった理由の一つには、わしが22歳の若者だったということがあるだろう。

 当時わしは外国人と話をしたかったので、停泊中、時間があると町に出て、市場に行ったり、商店に入ったりして、今と違って積極的に人の中に入って行った。若者はすぐに誰とでも友達になれる、これは特権だな。とくにビルマのラングーンには合計すると3週間以上停泊したので、いろんな人達に出会った。当時はネウィン首相の軍事政権下、夜間外出禁止だったので、平日の夜7時以降、市内に人気はなかったが、わしらはそんなことよくわからずに、出歩いていた。夜、真っ暗な大通りを歩いていると何かにつまずいたので、よく見ると人間だったこともあった。海岸近くにあった参謀本部と言われていた建物だけが、暗闇の中にボオッと浮かび上がっていた。今から考えると結構危ないことをしていたのかもしれないが、若いからできたんだろうな。

あと10622日

 24日に二男の家で、去年の11月に生まれた子供のお食い初めをするというので、女房が、早朝から炊いた赤飯を持って、高速バスで出かけた。わしも一緒に行きたいんだが、2人で出かけるとなると、2匹の犬をペットホテルに預けなくてはならなくなり、結構金もかかる。しかたがないので経費節約のため、わしが犬と留守番する事になった。何年か前なら車で行ったんだが、年を取ると高速道路を何時間も運転するのは億劫になった。女房もわしの運転はあまり信用してないし、運転が荒いので酔うといって、遠出することはめったになかった。おかげで、わしが運転をしなくなってもそれほど困らない状況ではある。

 わしは昔から、車を運転すると眠たくなる癖があるので、途中で停止ができない高速道路は危なかった。しかし、一般道路なら路肩に停めて、寝る事もできるはずなんだが、わしの性格的なものかもしれんが、途中で停めるというのはなんか抵抗があって、なかなかできなかった。そんなわけで、結局眠たくても運転を続けるという意味においては、高速道も一般道も危険性は同じだったということだ。今まで大きな事故がなかったというのは、単に運がよかっただけで、わしの運転技術が未然に事故を防いでいたわけはない。車の運転に向いていないということは、自分でもよくわかっているので、近場のちょい乗りであと5年、今の車に乗ったら、廃車にして運転終了だろうな。

 わしの子供の頃は、車なんか走って無かったので、一般家庭では家族で遠出するという習慣は無かったが、うちは親父がオートバイに乗っていたので、おふくろは留守番だったが、わしをタンクの上に、兄貴を荷台に乗せて、花見、海水浴、釣り、人の行かないような山の中にまで時々連れて行ってくれた。何も走って無い、ガタガタ道の国道や、山の中や海岸の小道を走るのは気持ちよかった。当時は速いと思っていたが、わしらを乗せているんだから、ゆっくり走っていたんだろう。帰りが遅くなった時なんかは、寝たらいかんぞと後ろの兄貴によく声をかけていたな。この頃なら車に乗るのも楽しかっただろうな。 

あと10623日

 午後からハローワークに職業相談に行って来たが、なんか疲れて来たな。去年の7月の段階では、時間はあるし、ハローワークに行くだけで失業保険が 貰えるなら、行かなきゃ損だくらいの気持ちだったんだが。既に、もう7ヶ月の長期戦になっており、こんなことなら、おとなしく65歳で、失業保険よりは少 ないが、一時金をもらった方がよかったかなと思う事もある。と言いつつも、今日も行ったので、今月も2回のノルマは果たしたから、次は3月8日の失業認定日に行けば、ひと月分が振り込まれることになる。認定日に行くのもあと2回になった。
 午前中車を運転していて、ふと、去年の3月の車検で、薦められた部品や油類の交換を全部断った時に、ブレーキ液とブレーキパッドの交換をどうするか、最後まで迷ったことを思い出した。以前ならブレーキ系統の不調は即事故につながるので、交換を薦めめられたら黙って交換していた。しかし前回の車検では、全部言う通りに交換すると、車検総額が16万になることに驚いて、そんなにかかるなら、今回は車検を通すだけにしてくれと言ったら、車検通すだけなら交換する必要ありませんということで、結局総額6万ちょっとになってし まった。
 わしも船舶機関士をやっていたんで、多少機械の事はわかるが、これにはちょっと驚いた。定期的に交換するにしても、優先順位があって、必ずやらなければならないものと、やったほうがいいけど次回でも大丈夫なものとかあるはずなんだが、やはりそこはプロの整備士としては、オールオアナッシングではなく、優先順位を提示して、絶対はずせない物があればそれはきちんと指摘したほうが良いと思うんだが、まあ、何も言わなかったんだから、年間2000km以下の使用なら、次回まで大丈夫と判断したんだろう、とわしは判断した。
 わしは前の車からずっと、車検はBモーターに出していて、安い料金できちんとやっているので感心していたんだが、最近抱き合わせで交換を薦めるようになった。その方が技術料が安くなるというんだが、今すぐ交換する必要のないものも一緒に交換するのだから、結局総額では高くなり、客のためにはなってないような気がする。以前のように、必要な物だけを安くという姿勢の方がよかったな。

あと10624日

 今の世の中、実際に行かなくても、インターネットに繫がっていれば、ストリートビューで、小さな路地の奥にまで入っていくことができるようになった。いつの間にか生活の中にとけ込んでしまって、あって当たり前の存在になっているが、居ながらにして、自分のペースでゆっくりと見て回る事ができるという、このストリートビューの出現は、わしにとっては実に画期的な出来事だった。

 本や映画等でみた地名を、地球儀や地図帳で探すしか方法がなかった時代、ウェストサイド物語のニューヨークやワイアットアープのウィチタ、アラビアのロレンス、チコと鮫で見たタヒチ等数え上げればきりがないが、わし等は地図で場所を探して、あとは頭の中で想像するしかなかった。小学生の時に、親父が日本百科大事典を買ってくれたので、それに出ている写真が、数少ない画像情報だった。本当に行けたらどんなにいいだろうと思ったな。

 当時、日本は貧しくて、ドルを持って海外に行けるのは選ばれた人で、金持ちだから行けるというものではなかった。言い方を変えれば、ドルを稼げる人、稼ぐ可能性のある人ということにでもなるんだろう。そんな中に外国航路の船員という職業も含まれていた。小学校の同級生で、父親が、外国航路の機関長をやっている子がいたが、その子が社会科の授業でペルシャ湾あたりのことを発表したことがあって、うらやましく思った事があった。また、自家用車を持っていたのは開業医の家と、その子の家だけだったな。そんなこともあり、海外へ行ける職業であり、金も稼げる船乗りになりたいという希望は募って行った。

 それから十数年たって、希望は実現したんだが、たしかに金は稼げたが、海外へ行きたいという希望はすぐに消え失せてしまった。知らない国へ行くと確かに面白いんだが、本で読んだり、映画で見たりして想像していたときのように、わくわくするものは無かった。わざわざ行かなくても、今ならストリートビューで十分代用できる程度のものだった。海外に行きたいから船乗りになるなどと、ずいぶん回り道をしたもんだ。

 結婚した頃、海外にはまったく行く気がなかったので、ハワイに新婚旅行という女房の案も断った。これは女房の両親の知人の家具屋さんが、サービスで一週間のハワイ旅行をつけてくれたもので、ただで行けたんだが、わしが断ったのでその話は流れてしまった。これに関しては今だに文句をいわれている。ごたごた言わずに、あれだけは黙って行っといたら良かったと、わしも後悔している。