無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10611日

 木曜日に排水舛水漏れ修理を依頼して、見に来たのが金曜日だった。修理が終わるまで、風呂も洗濯機も使えないので、先週の金曜日に続いて今日(月)も、朝の10時から娘の家に行って、シャワーを使わせてもらった。娘が近くに嫁いでいるのはこういう時には便利だな。排水舛も最近はコンクリートではなく樹脂製だから半永久的に使えると聞いたので、娘の家で確認したら確かに樹脂製だった。これならそんなに汚れる事もなさそうだし、掃除も簡単に出来そうな気がした。

 わしは今回の排水舛水漏れがあって、初めて住宅の排水システムというものを知る事が出来た。家の周りに5カ所、水がたまった舛があるが、これらが何のためにあるのか、どんな構造になっているのか、今まで考えたことも無かった。つまり、家庭排水は下水溝にどっかで流れ込んで、それをどっかで処分して、海に流しているんだろうと、漠然と考えていただけで、意識の中では全くのブラックボックスになっていたということだな。

 時たま、自分は何処へ行こうとしているのか、なぜ今ここにいるのか、などと不思議に思うことはあっても、普段はそんなことわすれてしまっていた。そんな事、気が付かない方が世の中を上手に生きて行けるのかもしれない。わしが居ようが居まいが、世の中に変わりはないし、すべては滞り無く流れて行く。そのことに、何の疑問も無く、満足して平穏に過ぎて行くなら、それはそれで幸せなのかもしれない。このことは、25年間何も意識する事無く、当たり前のように、平穏無事に流れてきた、わしの家の排水システムと同じだ。

 しかし、水が漏れているということを知り、それによって土が流されると空洞になり、家の土台が崩れることもあるという恐怖を知ってしまうと、その平穏はいとも簡単に破られる。その漏水を停めなければ安心できなくなってしまう。そして停める方法を知らないなら、その方法を学ばなければならない。実に当たり前の事だ。人の人生においても然りだ。それを解決する方法を学ばない限り、生きる価値がなくなってしまうという恐怖。その恐怖に、気が付いてしまったら。

 わしはひとまず忘れる事にした。わすれることは出来ないにしても、ひとまず封印して、定職を持ち、家族との生活を第一に考え、社会生活をやり遂げようと考えた。それから40年、社会生活はやり遂げたが、生きるのもあと10611日になった。方法を学び、平穏が訪れるのを期待して、自分なりに努力はしているが、無理ならまた来世がある。焦る事は無い。 

あと10612日

 仕事を完全にやめて、一日中家に居るようになってもうすぐ1年になる。ただ単に子供の頃の、夏休みみたいなもんだろうと考えていたが、それとは全く違ったものだった。子供時代のことをいくら覚えていても、それの再現はできない。じじいは子供にはなれない。そんなこと当たり前のことだろうというのは簡単だが、この感覚は実際に歳をとらないとわからないだろう。しかし、20代で無職になったときのような焦りはない。将来に対する不安も無い。家庭も持ち、子供は独り立ちし、両親は見送り、これといった資産もないが借金も無い、健康で、年金と女房の働きでなんとか食って行ける。

 40年前に人生はつまらんと感じて、人間の寿命が30年ならいいのにと思ったこともあった。それならあと5〜6年、なんとかしのげば終了だ。しかし現実には80まで生きるかもしれない。それならまだ60年近く生きなくてはならんことになる。親はいつまでも生きているわけではないし、霞を食って生きて行く事はできない。様々な試行錯誤があった。その過程はこのブログにもいろいろ書いているが、詐欺まがいのことを計画したりしたこともあった。しかし最終的に落ち着いたところは、つまらんのなら、つまらんなりに、ひとまず普通の社会生活を普通にやってみるかということだった。普通に結婚して、子供を持って、たまには親孝行もして、定年退職を待とう。すべてはそれからだと考えた。

 わしは死ぬ時に、あれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかったと後悔だけはしたくなかった。そのためにはその時にしかできないことは、その時にやっておくことだと思った。わしにとって、それは家庭を持つ事だった。結婚して子供を残すということは、いつでもできるという事ではない。わしが64歳まで可も無く不可も無く、ただ定年退職だけを目標に延々とやってこれたのは、家庭があって子供がいたからで、独身だったら途中でつぶれていただろう。

 こうしてやっと去年の4月1日にその日がやってきた。しかし今のわしは40年前のわしではない。40年前の状態にリセットすることは不可能だ。幸いなことに、予定通りだと、あと10612日生きる事ができる。40年待ってやっと掴んだこの1日1日を、『今日を生きる』という気持ちで大切にして、従容として死を迎えることができるよう、精進するだけだ。

あと10613日

 夕方、長男一家が来て、うちで夕飯を食べたんだが、その時に女房が、わしが仕事をやめた去年の4月以降、急に老けたと言い出した。仕事もしないで家に籠っているから年をとるのも早くなるという理屈なんだが、そういわれてみると、あてはまる事も多々ある様な気がして来た。一番わかるのが髪の毛のボリュームなんだが、確かに去年の3月と今とでは違うし、写真を見ても60歳と64歳ではあまり変らないが、64歳と65歳ではやはり歳取ったかなと思えるくらい変化がある。

 わしの場合、外見と実際の歳との乖離は年代によって違うようで、18歳位までは歳より幼く見られていた。この年代では幼く見られて得する事は何も無かったな。カツアゲされそうになったり、つまらん因縁つけられたりいろいろあった。だいいち、成人映画やストリップもうかうか入れない。老け顔の奴が羨ましかった。わしはいつ年齢を聞かれてもいいように、兄貴の生年月日を暗記していた。映画館の入り口で、もぎりのおばさんにじろっと見られると、いつもどきどきしたもんだ。

 最初に見に行ったエロ映画は16歳に時にD劇で見た『裸の誘惑』というアルゼンチンの映画だった。イザベルサルリというバスト120の女性がでていたが、これは強烈だったな。これを皮切りに、以後は映画を見に行くと言えばエロ映画だったが、18歳までに、入り口で年齢を聞かれたのはR座で1回あっただけだった。シミュレーションどおり、すらすらと兄貴の生年月日を答えて事なきを得た。

 そんな苦労も18歳までで、それ以後22歳位までは歳より老けてみられるようになった。これは結構役に立つもので、空手で黒帯をとったりして硬派を気取っていたのもあったんだろうが、町で因縁つけられることは無くなった。そして、その後24歳位から64歳までずっと歳より若く見られてきた。それがとうとう65歳で歳相応に見られるようになったのかもしれんな。べつに外見が何歳に見られようとかまわんのだが、体の衰えというのは、これはしんどい。若い頃は年寄りがあそこが痛い、ここが痛いというのを笑っていたが、これは笑い事じゃない。みんな体験して初めてわかることだろうな。

 3日前に、ぶら下がり健康器で、試しに片手懸垂10秒やってみた。右手はなんとかできたんだが、翌日から右肋骨が痛くなった。動く度に痛むので、ひびが入ったのかもしれんな。女房には、馬鹿みたいにそんなことするからよと笑われて散々だったが、骨も脆くなったもんだ。暫くぶら下がり健康器もお休みだな。

あと10614日

 今年も3月3日がやってきた。昭和18年3月3日ひな祭りの日、ニューブリテン島ニューギニアの間にあるダンピール海峡で、ラエに向かっていた第51師団約7千名の将兵を乗せた8隻の輸送船がすべて沈められた。さらに護衛にあたっていた木村昌福少将の第3水雷戦隊の駆逐艦も4隻撃沈され、作戦は失敗した。低速の輸送船団を2昼夜、敵の哨戒圏内に置くという無謀な作戦だが、アメリカ軍は、戦いが終わって救助活動をしていた駆逐艦や大発や、海に浮かんでいる人にまで機銃掃射を繰り返したと言われている。日本が勝っていれば、実行者は戦争犯罪類型B項戦犯だろうな。

 親父と同じ村出身のYさんという人がダンピールで戦死している。わしは墓石に刻まれてある経歴を読んで、そのことを知った。何かの時に親父にその話をしたら、親父はそのYさんと、朝鮮の元山で偶然に出会ったときの話をしてくれた。『ある日町を歩いていると、向こうから海軍の水兵が3人こちらに歩いて来た。そして普通にすれ違ったんだが、突然後ろから、○○さんと、親父を呼ぶ声が聞こえた。振り向くとさっきの3人の水兵の1人がこちらにやって来た。それがYさんだった。Yさんは嬉しそうに、「もうすぐ帽子に縁がつくんよ。」と話していた。帽子に縁が着く、つまり下士官になれるということだ。その場で話しただけですぐに別れたが、下士官になってラバウルに行ったんだろう。その後二度と会う事はなかった。』これだけの話なんだが、戦死したYさんと聞いただけで、すぐにこの話を思い出すということは、人の命が普通に失われていた時代だからこそ、本当に一期一会という気持ちだったんだろうな。

 おそらくYさんも同郷の親父に、自分が下士官になるということを話す事ができて、嬉しかったんだろう。晴れがましいことは、少しでも自分を知ってくれている人に話して、一緒に喜んでほしいのが人情だろうな。

 

あと10615日

 今の家を建ててから25年になるが、あちこちでガタが来始めたようだ。建て付け悪くなり、扉が閉まらない、床と壁の間に隙間ができる、外壁にひびが入る等いろいろあるが、たいていのことは、経年劣化ということで、すまさざるを得ないのが現実だ。外壁と屋根は、一昨年に1階部分をリフォームした時、一緒に塗り直したので、わしが死ぬまで大丈夫だろう。その時は、これで金のかかる工事はもう無いだろうとほっとしていたんだが、見事にその期待は裏切られた。

 昨日から、プロパンガスを都市ガスに変更するための工事が始まった。今日は朝からガス管に接続するために、道路を掘っていたところ、業者が、大変な事になっていると言って来た。うちに敷地内にある、排水舛の下あたりから下水が漏れていて、その水がコンクリートの下の土を削って、大きな空間ができている。このままにしておくと他の排水溝にも影響がでてくるおそれがあり、早急に修理した方がいいということだった。

 わしら素人に排水舛の修理といわれても、ピンとこないので、どこに聞けばいいのかと聞いても、自分等はガス工事しか知らないので、ネットで調べてくれと言われた。まあ当然だろうな。そこで、前にリフォームを頼んだ、新築そっくりさんの営業のDさんに見に来てもらった。Dさんは排水舛の交換になるかもしれないが、面倒な工事ではないと教えてくれた。金もそんなにかからないようで、ここでちょっと安心したな。

 結局は専門業者に頼まなくては話は前に進まないので、市役所に勤めているSさんに電話して、市役所の下水道の部署にいるSさんの知人に、良質と思われる専門業者を聞いてもらったところ、M水道とY水道の2社なら間違いないということらしかった。M水道は昔から名前を聞いたことがあったので、そのM水道に連絡してみたら、さすが推薦されるだけあって、なかなか丁寧な対応で、明日見に来てくれることになった。これで一応修理の目処はたったわけだが、問題は工事は来週になるので、排水舛に流れ込んでいる、風呂と洗面所が使えないということだ。近所で一軒だけ残っている銭湯に行くか、車で温泉に行くか、いろいろ考えたが、結局、昼間娘の家に行って、シャワーを使わせてもらうということで落ちついた。

 以前「社宅住まいが一番いい、雨漏りでも何でも電話一本ですぐに直してくれる。」と言っていたサラリーマンがいたが、確かに一理あるな。

あと10616日 大祓詞

 サニワと大祓詞の神髄をほとんど読み終わった。これで3〜4回読んだと思うが、この中で相曾誠治氏が大祓詞についてわかりやすく解説し、さらに4つの秘伝を公開している。わしは大正3年内務省選定と書かれた大祓詞を、2005年から12年間使ってきたが、一部省略したこの祝詞でいいのかどうか、つねに疑問に思っていた。天津罪国津罪の内容が近代社会にはそぐわないと判断したのかもしれないが、時代にそぐわないから変えるということが正しい事なのか、そもそも大正3年に誰が選定したのか、疑問は尽きない。

 昨夜、相曾誠治氏が解説している『みなづきつごもりのおおはらえ』を読んでいて、これをそのまま使えば何の憂いも無いではないかと気が付いた。氏がこの祝詞を選んで解説してるんだから、間違いなどあろうはずが無いではないか。なぜ今まで気が付かなかったのかな。しかし毎日神前に本を持って行くというのも面倒なので、紙に写し取って神前に置いておくことにした。

 今日の午後3時位から写しとる作業を開始したが、わしは筆圧が強いので書くのは骨が折れる。昔ロッキード事件の国会証人喚問のとき、日商岩井の大庭さんだったか、手が震えて署名ができないことがあった。うそをついているからだとか、外野では騒いでいたが、わしにはわかっていた。あれは単なる病気なんだな。じつはわしも同じ症状があり、悪い事は何もしてなくても、手が震えてなかなか書けない事がある。だからワープロがでたときは飛びついたな。

 どうしても長い文章を書かなければならない時は、万年筆を使うようにしている。今回も大祓詞を書き写すにあたっては、8ヶ月間ほど引き出しの中で眠っていた、ウォーターマンのインクを入れ替えて使用した。A4の紙4枚に写し取った後、ルビをふるのはuni-ball Signo 0.28mmを使った。

 大正3年内務省選定の大祓詞は、プリントアウトしたものを使っていたが、今回は手書きにした。単なる自己満足かもしれないが、それも大切なことだろう。完成後すぐに神前で、相曾氏の薦める方法で奏上してみた。何が変ったという事は無いが、これで間違いないという安心感は残った。

あと10617日

 去年の11月に生まれた、二男の子供の初節句になるので、二男が生まれた時に、女房に実家からもらった五月人形を送ってやる事にした。日本全国どこでも、ひな人形五月人形は嫁の実家が買う事になっているようだが、こんな人形を親と子供がそれぞれ1つづつ持っていてもしょうがないと思うんだがな。特に転勤族で、アパート住まいの二男一家なんか、2つも飾るスペースはないといっていたな。

 うちの3人の子供のひな人形五月人形は、女房の実家が買ってくれたんだが、長女のときは初孫という事で特に気合いが入っていたんだろう、畳2畳を占有する立派なものを揃えてくれた。家が狭いし、しまって置いとくところもないので、小さいのでいいですよと、くどいくらい言ったんだが、却下された。結局、出すのも、しまうのも面倒で、飾ったのは小学校の低学年の頃までだった。それ以後ずっと物置で眠ったままだったが、去年娘夫婦が家を新築したので、やっと持って行ってくれた。

 長男のときは、ひな人形で懲りていたので、一緒について行って小さい兜にしてもらった。これは飾るのも、しまうのも簡単で良かった。それで二男の時も、小さい兜をお願いしたんだが、同じ様な兜ではつまらんと言われて、わりと大きな、鎧を着た五月人形を買ってくれた。大きいと言っても単体だから、ひな飾りの様に、かさばる事はないが、それでも今回みたいに送るとなると、箱の縦横高さの合計が160cmを越えているので、結構大変だった。

 最初、廃バッテリーを集荷にきた佐川急便のドライバーに聞いてみたんだが、こんな大きな荷物は扱っていないと言われた。次に宅配に来たヤマト運輸のドライバーにも聞いてみたところ、うちではできないが、日通に言えば運んでもらえるはずだと教えてくれた。日通といえば、まるで運んでやると言わんばかりだった、昔の横柄な態度を思い出すが、そうも言っとれんのでwebで確認したら、ペリカン便だった個人の小口の荷物取り扱いは、ゆうパックに変っていた。そこで郵便局に集荷依頼を送信したら1時間くらいで取りに来てくれた。3箱で5090円、明日の午前中に着くといっていたが、便利になったもんだ。

 やっぱり、あの日通では小口宅配事業は無理だったみたいだな。民営化で郵便局は変ったが日通はどうだったんだろうな。