無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10604日

 以前職場で、同僚の1人に教育勅語の現代語訳を、教育勅語であることを隠して読ませたことがあるが、その人は、そのとおりだと、えらく感動していた。ところが、後で本当の事をいってやると、突然教育勅語なんかはだめだ、軍国主義だなどど、わけのわからん事を言い出したことがあった。中身は、誰が読んでも当たり前のことしか書いてないんだが、戦後の日教組教育が必死になって否定してきた、天皇陛下からいただいだものだというだけで、脊髄反射する人達がいるということだ。特にこの人なんかは、普段は思慮分別もある常識的な人だっただけに、ちょっと驚いた。

 不思議なのが国旗掲揚だ。昭和40年代には、わしの町でも祝日には各家庭に日の丸が掲揚されていたのは覚えている。これが完全に消えてしまったのはいつの頃だかわからないが、昭和51年に東京に行ったときは、すくなくとも下宿屋に周囲で見る事はなかったから、都会では消えるのが早かったのかもしれんな。この昭和50年前後にいったい何があったのか興味深いところだ。

 日の丸といえば、わしが小学校4年生の時だから昭和36年、富国生命の新聞広告で『国旗あげます』というのがあった。わしはそれを見てすぐに葉書を買って来て応募したことがあった。おそらく家の国旗が汚れているから、きれいな国旗が欲しかったんだろう。わし自身そんなことすっかり忘れていたんだが、ある日玄関先で遊んでいると、背広を着た人がやって来た。その人はすぐにおふくろを呼んで、この家に○○○○という人がいますかと尋ねた。おふくろは何事かと驚いて、この子ですがとわしの方を指差した。すると背広の人も「えっ、子供ですか?」と驚いていた。

 この人は富国生命の社員で、応募者全員に国旗を配って歩いていたんだが、まさか小学生が応募していたとは思ってなかったようだ。おふくろが子供では駄目ですかと聞くと、その人は、いいんですよと言ってカバンから国旗を取り出して、直接わしに渡してくれた。なんか誇らしかったように覚えている。今から思えば、宣伝のためとはいえ、社員が応募者の家を一軒一軒回って国旗を配るというその行動に、今の日本企業が忘れてしまった、ビジネスを超越した、いかにも日本人的な暖かみを感じるのはわしだけではないだろう。

あと10605日

 わしが船乗りになったころだった。機関制御室で何人かで話しているときに、売春防止法の話になったことがあった。この時昭和48年だから法律制定から17年後、年配の操機手が「○○の止まったばあさん達が集まって、つまらんものを作りやがった。」と言っていた。○○のとまったという言い方も面白かったんだが、これがほんとうにつまらんもので、法律ができようができまいが、港町どこに行っても需要があるところには必ず供給があった。必要悪だとわかっていても、今風に言えばポリコレ棒でたたかれるので、表立って誰も反対はできなかったんだろう。船乗り生活2年程の間にも様々な勉強をさせてもらった。

 あれは福島県小名浜に入港したときだった。上司のH一等機関士が、わしを港近くの割烹旅館に連れて行ってくれた。わしはそこで酒を飲んで飯を食って、船に帰るものと思っていたんだが、H氏はそこで酌婦を呼んでくれと言い出した。そしてわしに言った。「どんなのが来るかわからんが、もし気に入ったら一晩泊まっていっていいぞ。明日の仕事は昼からでいいいから。」わしはT風呂なんかは知っていたが、こんな田舎の寂れた割烹旅館で酌婦を呼び、酌婦が売春をするということは俄には信じられなかった。

 20分程してちょっと小太りの、あまり奇麗ともいえない、40前後と思える和服の女性が入って来て、H氏といろいろ話を始めた。今日は駄目とかいいながら条件を提示しているようにも聞こえるし、微妙な言い回しだったが、H氏は慣れたもので楽しそうに話をしていた。それが交渉だったんだろう、1時間程してそろそろ出ようかという時になって、H氏は支払いをした後、一晩泊まってこいと、その分厚い財布をまるごとわしに手渡してくれた。これにはわしもびっくりした。当時わしは22歳で元気はあったが、さすがにちょっと勘弁してほしかった。御礼をいって財布は返して、一緒に船まで帰る途中、「○○君でも、あれは無理だったか。」と笑っていた。案外わしの反応を見て楽しんでいたのかもしれんな。H氏も御健在なら80歳位になっているはずだ。

 こんな経験をしながら、貨物船であちこち航海して回っていたんだから、今から思えば、わしも短い期間ではあるが、外国航路の船乗りとして、古き良き時代を経験したといえるのかな。

あと10606日

 二世代で同居している家は多いと思うが、そもそも同居する事の意味は何かと考えてみるに、一番大きなのが子供世帯の経費節約ということではないだろうか。わしの場合も市内で親と一緒に住んどけば、子供等が自転車で高校に通えるので、定期代もかからないというのがあった。しかし、実際に同居するとなるとそういう打算だけではすまない。

 わしと親は親子だが、女房は他人だ。女房とわしは夫婦で運命共同体みたいなものだが、親と女房とはやっぱり他人だ。そんなことを考えると、うまくいっている時はいいが、揉めた時はどうなるのか多少不安はあった。幸いわしらは、親と同居するまでの10年間、車で30分くらいの所に住んで、頻繁に行き来してお互いよくわかっていたので、親と女房とはうまくやっていけるだろうという確信はあった。

 さらに女房は穏やかな人間なので、親に何か言われても、言い返したり不平を言ったりすることは無かった。今から思えば、このことが最後まで円満に2世代同居でやっていけた最大の理由だと思っている。しかし世の中にはすぐに膨れっ面になったり、瞬間湯沸かし器みたいにすぐに怒りだす人が男女を問わず大勢いる。わしも65年生きて来たから様々な人達に遭遇して来た。もしこういう人達と、この先何十年も同居することになったとしたら、それはお互いが不幸になるだけで、決してプラスにはならないだろう。

 女房はできれば二男夫婦と同居したいと考えていたようで、わしがちょっと待ってくれと言ったのが意外だったようだ。あんたは一緒に住みたくないのかと言ってきた。わしは住みたくないのではない、嫁の性格をもう少し理解してからにしたほうがいいだろうと言うんだが、母親としては不満らしい。アパート代が勿体ないとか、やはり二男世帯の経費削減というのが目的らしいが、これから先、あと10606日2世代同居するつもりなら、それが目的というだけでうまくいくんだろうかな。

 一旦始めた同居を途中でやめなければならなくなったら、恐らく二男嫁とわしらの間に感情的なしこりが残り、二つの家族の間にも大きな亀裂が生ずるわけで、お互いが不幸になるだろう。将来同居もあるかもしれんなという話ぐらいで済ましておいたほうが無難だと思うんだがな。気持ちの上では子供に対する責任は既に果たしているし、わしも35年待って、やっと手に入れたこの静かな環境を手放したくないという気持ちもある。さて難しいところだな。

あと10607日

 今日は、女房の仕事が夕方まであるので、久し振りに飯炊きをすることになった。4月から、また毎日飯炊きが始まるので、その予行演習みたいなものだ。出がけに献立を書いていったものを見ると、大根とすじ肉の煮物、キャベツの千切り、トンカツとあった。これは楽勝だなと安心して、まずは掃除にかかった。いつものように掃除機と雑巾がけで30分、それから太陽参拝とやるべき事をすませた後、支度にかかった。去年は午後4時くらいから作り始めていたが、今年から先に料理を済ませることにした。

 大根とすじ肉の煮物はすでに自分のレシピがある。白だし50cc、みりん50cc、水を加えて300ccを鍋にいれ、それに適当な大きさに切った大根、あく取りをしたすじ肉とこんにゃくを入れて、初め中火で、途中弱火で30分、大根が柔らかくなるまで煮る。甘みが足らないと少し塩を加えて味を整えると出来上がりだ。今日の大根には立派な大根葉がついていたので、これを捨てるのは惜しい。そこでクックパッドをみると、みじん切りにした大根葉をごま油で炒めて、鰹節とごまと醤油で味をつけるというのがあったので、それを作ってみた。食べる時に女房に醤油味が足らんといわれたが、好みの問題だからそこは仕方が無い。

 ここまで作ったところで、クレジットカードの引き落とし口座の変更を頼まれていたことを思い出して、先にそれをやっていると、珍しく人が来た。一週間、水12Lとサーバーを無料で置かしてほしいという営業マンだった。すぐに帰ってもらうつもりだったが、結局熱心な営業トークに寄り切られてしまった。来週の金曜日に必ず取りにくる、料金も全くかからないということを再度確認して、一週間使う事になった。使ってみると、4度の冷水と90度の湯がでるので確かに便利なもんではあるが、月に2500円だして水を買おうとは思わんな。こんなことをしているうちに、トンカツを揚げるのをすっかり忘れてしまった。

あと10608日

 昨日の午前中に、プロパンガスと都市ガスの切り替えが完了した。人生の半分にもなる32年間もお世話になった、○○ガスのの名前が入ったボンベも回収に来た。向こうは長い間ありがとうございましたとあいさつして行ったが、なんか悪い様な気がしたな。夕方になって、ガスメーターとガス検知器の回収に来た社員も同じくあいさつをして、長い間使っていただいた御礼ですといって、タオルを2本置いていった。○○ガスはこの辺りでは大手のプロパンガス会社で、昔から社員もきちんとしていた。信用できる良い会社なんだが、今回の件をみていると、営業がちょっと弱いんじゃないかという気がしたな。

 うちの家は、一昨年の夏に「新築そっくりさん」でリフォームしたんだが、その時に風呂のガス給湯器を取り外さなくてはならなくなった。そこで○○ガスにお願いしたところ、無料で、取り外しとリフォーム完了後の再設置工事を行い、さらに工事期間中の機器の保管もしてくれることになった。わしらとしてはこれは有り難いことだった。このとき既に、風呂の給湯器が15年、2階に設置してある小さい給湯器が25年たっており、特に2階のは、時々電源が入らないなどのトラブルもでてきており、ほとんど寿命は尽きていた。設置したのも○○ガスなんだから、調べればこのことはわかっていたはずなんだが。

 けさも女房と話したんだが、もしあのリフォームの時に、取り外して保管するのではなく、安くしますから、この際、新しい給湯器に付け替えませんかと提案されていたら、一も二もなく話に乗っていただろうな。そして死ぬまで○○ガスを利用し続けたことだろう。会社が大きいから、一軒位客を失っても、実質的には影響はないとは思うが、社員がそんな公務員みたいな感覚になると、将来的によくないんじゃないかな。

 うちにやって来た都市ガスの営業マンは、都市ガス普及地区にもかかわらずプロパンで、古い給湯器を使っている家を集中的に回っていると言っていたが、自由化が近いという事もあり気合が入っていた。昔は都市ガスは殿様商売でプロパンの営業のほうが厳しかったが、まったく逆になったようだ。工事費用を負担するだけで、古い給湯器が新しくなりますよと囁かれたら、それでもプロパンガスがいいと言う人はいないだろうな。

あと10609日

 今朝は冬に逆戻りしたような寒さだったが、8時30分にハローワークに行って来た。3月30日でわしの失業保険受給期間が終わるので、認定日も今日行ったらあと残すところ1回となる。さすがに8時半に行くと空いている。前に2人しかいなかったのですぐに呼ばれた。担当者は初めての人で、いつも通り書類に記入した後、珍しい会話があった。その人は暫くパソコンの画面を見たあとで、わしの方を向いて、「この条件では難しいかもしれませんね。」と言った。いかにもハローワークらしい会話に、わしもにんまりとして「そうですか、仕方ないですね。」と答えといたが、ハローワークに通い始めて5ヶ月にして初めて言われた言葉だった。

 この条件と言われて、はて、わしの年齢のことかなとも思ったが、年齢に関しては介護関係の仕事は、やろうと思えばあるんだから、条件には入らんはずだ。何だろうなと考えていてふと思い出した。そういえば去年の10月に初めて職業相談に来た時に、いろいろ質問された。その中で、どんな仕事が希望ですかと聞かれた。希望は無いと本当の事を言っとけば良かったのかもしれないが、わしは何か答えなくてはいかんのかと思って少し考えた。すると畳み込むようにもう一度、希望はありませんかと尋ねて来た。そこでつい、地方都市で、しかも65のじじいに求人はないだろうと思われる仕事を答えてしまった。案の定その人も首を捻っていたな。おそらく其の時の情報が画面上に出ていたんだろう。

 そこで、職業相談の判を押してもらって2階にあがり、失業認定の窓口に書類を入れて暫く待っていた。ここも前に3人しかいなかったので、すぐに呼ばれた。一週間位で振り込まれること、次回認定日は来月4月5日(水)であること、そして、それまでにもう一度職業相談に来てくださいといわれて、ハローワークを後にした。たった15分位のことだが、だんだんと気が重くなってきたな。時間はあるんだから、たまに外出できて気晴らしになるだろうと軽く考えていたが、そんなことはない。後2回、ハローワークも、もうじゅうぶん堪能したかな。

あと10610日

 あと10772日に書いた通り、わしは若いとき、松根東洋城が作った「渋柿」という結社の句会に参加していた。そして結社の俳句雑誌「渋柿」という本の編集発行人だったB先生の家に出入りして、添削してもらっていた。先生は80過ぎで、家は高田馬場駅の近くで、『日本死ね』などという汚い言葉を誉めたたえて有名なった、あの「ゆーきゃん」の前の細い道を歩いて10分位のところにあった。このB先生はなかなか豪快な方で、俳句の添削でもこうしろああしろとは言わずに、わしらみたいな素人の意見もよく聞いてくれて、じゃあこうしてみるか、これでどうだろうと、一緒に考えてくれた。

 B先生は謡もやっていたので、ときどきわしも教えてもらっていた。「あんた、つやのあるええ声しとんじゃが、しっかり腹から声を出さんといかんぞ。」とよく言われたが、先生のような声はどうやっても出なかったな。先生は酒が好きで、飲み過ぎて体を壊したことがあり、奥さんから止められていた。しかし、ある夏の午後お宅に伺うと、ちょうど奥さんがお留守で、先生一人だった。すると「ビール飲むか。」とビールを持って来て薦められた。この時に松根東洋城と出合った時のことや、旧制中学のこと、東京高等商業学校、銀行員時代のことなどいろいろ語ってくれた。

 その頃だった。東京の目黒雅叙園で渋柿全国大会をやることになった。選者とか主立った人達が全国から集まってくる大きな大会だった。わしも初心者ではあるが、句会には参加するつもりだったので、そのように申し込みをすると、B先生に、句会終了後懇親会があるので、それに参加して、全員の集合写真を撮ってくれと言われた。雅叙園には渋柿会員である日本画家磯部草丘の天井画や襖絵があり、これを見るだけでも価値があるし、参加費は出してあげるから、おいしいものを食べて行きなさいと言われて、引き受けることにした。幼稚園の入園卒園などの集合写真はアルバイトで撮っていたので、大丈夫だろうと思っていたんだが、まさか冷汗三斗の思いをすることになろうとは、この時は考えもしなかったな。