無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10586日

 仕事をやめて一年たった。わしの使っている集文館三年手帳で去年の3月31日の項目を見ると『最終日 Sさん、Tさん、Iさん来る』と書いてある。SさんとTさんは先輩で、既に何年も前に退職しているが、わしが今年度でやめると聞いて、わざわざ来てくれた。Iさんはわしより3年後輩で、今再雇用2年目になっているはずだ。SさんTさんは、30年以上同じ職場にいたので、喧嘩もしたり、一緒に飲んだり、いろいろあったが、随分お世話にもなった。年に一度くらい、OBの飲み会をやろうと約束したが、去年は実現できなかった。この一年、わしも外に出なくなったから、誘われてもなんか面倒くさいような気もしてきたな。

 今日は朝から雨のなか、3日前から、長男の引っ越しの手伝いに行っていた女房が帰って来た。いると面倒くさいなと思う事もあるが、いなければいないで、なんかものたらないような気がする。1人では食べる事ができない人もいるようだが、わしはこの一年で多少鍛えられたから、それはない。しかし、2日たてば帰ってくることがわかっているので、いろいろ考えて飯の支度をしようとは思わなかった。一日目はレトルトカレーと野菜サラダ、ゆで卵。2日目がスパゲッティと野菜サラダ、ゆで卵で、まあ、この晩飯では2日が限度だろうな。

 4月からは女房の仕事がはじまるので、料理をする機会がふえるが、やはり、料理というものは人が食べてくれるから作るのも楽しいので、自分が食べるためだけに凝ったおかずを作る人はいるんだろうか。いくら料理が好きでも、自分で作って自分だけで食べることを1年365日続けるのは、ちょっと気が滅入って来るんじゃないかな。それでも、自分で料理ができる人は何の問題も無いが、一番悲惨なのは、自分で何もできない男やもめだろうな。これは気が滅入る位ではすまないだろう。まさに『男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く』だ。もし、わしがあと10586日生きたら、1人になる可能性が高いわけで、こんなこと言われないように、せいぜい今から準備しとかないとな。

 

あと10587日

 去年の4月から家にいるが、いつの頃からかわからないが、よく夢を見るようになった。どうしても解決できないことを、いつまでも延々と続けている、或は続けなくてはならないというような内容で、とにかくしんどい。その時のシチュエーションも、目が覚めた時は覚えていても、すぐ忘れてしまう。夕べ見たのも、さっきまで覚えていたが忘れてしまった。どうせ見るならもっと楽しいやつがいいんだが、考えてみたら、実生活においてもこれといって楽しいこともないし、夢で楽しいことを望んでも無理かもしれんな。

 楽しいとか、うきうきするような感覚とはどんなんだったか、思い出そうとしてもなかなか思い出せない。年をとるとついつい先を見てしまって、今を楽しむ事ができなくなるのような気もする。子供の頃、遠足の前の晩なんかうれしくて、リュックサックを背負ったり降ろしたりしたもんだが、何がそんなにうれしかったんだろうか、さっぱり思い出せない。新入学がうれしかったかどうか、中学校入学がうれしかったのは、はっきり覚えているんだが。

 小学校4年生の時に、友達にどういうときが一番楽しいか聞かれて、わしは土曜日に学校から帰った時が一番楽しいと答えたのを覚えている。今の子供は土日休みが当たり前になっているから、この感覚はわからないだろう。休みに日に遊ぶのと、昼に学校が終わってから遊ぶのとでは楽しさが全く違っていた。とにかく学校に行かなくていいというのはうれしかったんだろうが、今は学校も仕事も行かなくていいのに、うれしくもなんともないのはどうしたことだろう。年をとるということはこういうことなのかな。

 しかし、実生活で楽しい事が何も無いとか、何が楽しいのかわからないとか、これはちょっとまずいんじゃないかと思う事もあるんだが、どうなんだろう。楽しいといった所で一過性のもので、そんなものは妄想にすぎないといえば、ある面では、それはそのとおりなんだが。さて、どこまでこういう状態がつづくのか、客観的にみていくのも面白いかもしれんな。

あと10588日

 二男が転職を考えているそうなので、最近わしもネット上でいろいろ求人を見ているんだが、中途採用でも、経験不問とか年齢も30歳くらいまで大丈夫なのもあるようで、以前に比べたら随分増えたような気がする。わしはハローワークに行く度に、自分の年齢ではなく、二男の年齢をいれて探している。検索にかかるのは多いが、あまり薦められるようなのはない。やはり都会に行かないと良い仕事はみつからない、というのはわし等の時代と変らんようだ。

 ネットを見ていて気が付くのが、特殊溶接とか鍛造とか、様々なもの作りの技術の継承者を募集していることだ。それらはほとんどが社員数十名の中小企業で、売り上げもそんなに多くはないだろうが、機械で代用できない、日本のもの作りの基幹部分を担って来た人達或は会社だったんだろう。以前はこのような会社の求人は、地域の職安で探すしかなかったが、今はネットで全国の人が見る事ができるので、良い人材が集まるんじゃないかな。

 昭和48年の1月から3月まで3ヶ月間、尾道日立造船向島工場で実習をしたことがある。その間に溶接、電機、仕上げの各部門を回った。それらが船舶機関士に必要かといえば、そうでもないんだが、現場の職工さんにいろいろ教えてもらって、為にはなった。最初行った電気溶接では、落ちている鉄板を拾って来て1日中練習した。別に強制された訳ではない。のんびりやっていいよと言われていたが、やりだすと非常に面白い。夕方になると職長が出来上がりを講評してくれた。そして手本を見せてくれたが、これが人間業とは思えない様な、すごい技だった。

 仕上げではHさんという人と親しくなり、発電用ディーゼル機関の解体、組み上げを一緒にやらしてもらった。はずしたネジ類はすべて一つの缶の中に入れていくんだが、どれがどのネジか、後からわかるのかHさんに聞いたことがあった。Hさん、上から順番にはずして入れてあるから、組むときは下からやっていけばいいんだと平然と言っていた。さて、ピストンをはずして、ピストンリング交換、軸受けメタル交換等した後、いよいよ組み上げだが、Hさんはわしにいろいろ教えてくれながら、まるで流れ作業のようにすいすいと組み上げていった。解体1週間、組み上げ1週間で合計2週間、Hさんの匠の技を見せてもらった。

 こういう人達が、世界に冠たる日本の造船業を下から支えてきたんだが、造船業も一時は3Kといわれて人気がなかった。後継者は育っているんだろうかな。

あと10589日

 子供は清い心を持っているなどといわれるが、それも無いとはいわんが、無知或は倫理観の欠如による残酷さというものも、合わせ持っている。決して大人をダウンサイジングしたものではない。そういう子供を、正しい方向に導き、型にはめて行くのが本当の教育だと考えている。個性を大事にというが、それはできあがってからのことで、最近の親が主張する所の子供の個性とは、わがままにすぎないと思っている。本当の教育者が必要と思えば体罰もあっていいいと思う。

 しかし、わし自身は自分の子供を叱ったことはあるが、叩いたことはない。なぜなら、わしには子供に体罰をふるうだけの自信が無かった。どんなひどい事をしたとしても、無力な子供を叩くことは、かわいそうでできなかった。子供を叩くとい言う事は、この子を良い方向へ導くためだという、自信が無ければできないはずだ。そしてそれができるのが本当の教育者というものだろう。残念ながらそういう人に出会ったことがない。

 生意気だから、認めないから、下校途中で店に寄ったから、こんなことで制服のボタンが全部とれてしまうほど複数の教師が取り囲んで小突き回し、黒板に落書きをしたといって廊下で十数発殴られる、これが教育的体罰といえるのかな。しかも命令役と実行役、見張り役と別れていたというから、成長過程でまともな教育を受けてこなかった連中が、職業として教員となっているということだ。わしの二男が目を付けられてしつこくやられたんだが、二男はわしと違って、人よりも体が小さくて、おとなしい真面目な性格だった。絶対反抗しないことがわかっているから、むこうもやりやすかったんだろう。

 さすがに、わしも異常事態に気が付いて、とにかくうちの子供に手をかけるなと校長に通達した。そして関係者全員と話し合いを持った。中にふてくされたような奴もいたが、全員反省の弁を述べて謝罪もしたので、わしも穏便に済ませた。これは普通の公立中学校であったことだが、幾らひどいと言ってもこんな教師達がいたことが今でも信じられないくらいだ。この中の1人は次の学校で暴力事件を起こし、懲戒処分されていたから、暴力体質が染み付いていたんだろう。

 世の中には親子3代教師の教育一家とか存在するようだが、わしには信じられない。自信を持って教育者ですと言えるその自信はどこからくるのか。中学生に数学や国語や社会を教えるだけなら誰でもできる。しかしそれは単なる教員であって教育者とは別物だと思うがな。わしには教育を仕事にすることなど、恐ろしくてとても考えられなかった。

あと10590日

 大人でも集団になれば考えられない行動をすることがあるが、16〜8歳の子供の世界では尚更のことだろう。わしが島の全寮制の学校に入ったのは昭和43年だった。I港からホンポン船で2時間かけて、2次試験のために初めて島にわたったが、霧雨の降る中、ひとりで心細かった。島には小さな桟橋が一つしかなくて、人影もまばらだった。今のように宿をインターネットで予約できるわけもなく、上陸して、さあどうしようかと考えていたら、他の受験生を迎えに来ていた上級生が声をかけてくれて、宿を世話してくれた。これはまさに地獄に仏だったな。その人の顔は今でも覚えている。

 入学式にはおふくろがきたんだが、式には呆れていたな。3年生のヤジや口笛がうるさく、まともな学校じゃなかった。おふくろはこのままわしを連れて帰ろうかとまで考えたらしい。当時は変則的で、3年生だけが高校生で生徒、1年生2年生は高等専門学校で学生ということになっていた。したがって3年生は落第即退学となるので人数も少なかった。いってみれば僻もあったんだろう。黙れと言わない学校もおかしいが、3年生には、寮の管理に関して、学校側も弱みがあったようなことも聞いた事がある。

 寮では直截的な暴力は無かった。軍隊じゃないんだから当たり前なんだが、わしらも多少覚悟はしていただけにちょっと拍子抜けした面もあった。わしら1年生は最後のほうに汚い風呂にはいるんだが、たまに3年生がはいっていることがあった。わしではないが、同級生は君が代の2番を歌わされたことがあったらしい。何を歌ったのかしらないが、歌うまで風呂からあがらしてもらえなかったそうだ。また、洗濯機使用禁止とかいわれて、冬の吹きっさらしの中でも、裸足で洗濯板で洗濯したものだ。娯楽室入室禁止でテレビも見れなかった。おかげでロバートケネディーが暗殺されたことも知らなかった。夜中に叩き起こされて廊下に並ばされたりしたこともあった。

 他にもいろいろあった。上級生といったところで、高校2、3年生なんだが、個人的にはいい人が多かった。暴力事件で退学になった人もいたが、退寮即退学という密閉された集団生活が、感覚を狂わせるんだろう。この群集心理による弱いものいじめは、したほうもされたほうもどちらも嫌な思い出が残るだけだ。中学校のいじめなんかも、同じ心理なんだろう。船乗りになりたいという強い意志があったからできたんで、今あの生活をもう一度やれと言われてもお断りだな。

 

あと10591日 神界から来た人

 昨夜、佐藤愛子著『私の遺言』四章「神界から来た人」を読み返してみた。神界から来た人即ち相曾誠治氏に関する記述がメインになっている。内容は『サニワと大祓の詞神髄』『言霊と太陽信仰の神髄』に書かれてある事と重複していることが多いが、佐藤愛子氏が、実際に相曾誠治氏と会って感じた事や相曾誠治氏が行った事、会話の内容等、講演集には出て来ない、相曾誠治氏の生の姿が表現されていて、非常に参考になった。

 文章の中に、「困惑」という詞が時々出て来ている。神界の事や、神様のことなど荒唐無稽だといえば、確かにそう感じる人も多いだろう。佐藤愛子氏は作家だから、1の事を10に膨らまして、面白く書いているのではないかと思う人もいるかもしれないが、少なくとも、この章の相曾誠治氏に関する記述に関しては、嘘や脚色は無いと思っている。困惑するが否定はしない。知らない事を否定しない。様々な怪異現象に悩まされた佐藤愛子氏の、相曾誠治氏に対するスタンスは、こういうことではなかったのだろうか。

 わしも、わからないことはわからないままで放っておくことにしている。相曾誠治氏の本を読んでも、ほとんどわからない。もちろん日本語だから、書いてある事はわかるが、それが本当かどうかなどということは、自分が同じ体験をしない限りわかりようがないことだ。それは古事記も同じだ。100回読んだ所で、おそらく何もわからないだろう。異境備忘録も同じだ。これは読むのも骨が折れるが、苦労して読んでもわからない。

 それでも読み続けるというのは、いつか理解できるようになるんじゃないかと、期待もしているということで、佐藤愛子氏のように本人に話を聞けない以上、文章を通して語りかけてくれるのをひたすら待つ以外に、凡人のわしなんかが取るべき方法は無いんじゃなかろうか。こういう作業は何の生産性もないし、わかったからどうなるというものでもない。しかし、わしにはこれが、人として生まれた以上、目指すべき最終目標のように思えてならない。

あと10592日

 わしが利用した最初のパソコンはMacIIciだった。勿論業務用で、100万円もするものを個人で買えるわけがない。今から考えてもめちゃくちゃ高かったな。ついでに、これにMac-WORDを入れて文書作成も始めたが、キーボードから解放されて快適だった。それまではPC98が幅をきかせていて、一太郎とかいうワープロが使える人にお願いして作ってもらっていたんだが、そんなテクニックはあっという間に陳腐化してしまった。Macの出現というのはほんとうに革命的だった。

 そのうちにインターネットが繫がるようになってパソコンの使用頻度も格段に高くなった。初期の頃は、世界中探しても個人のホームページなんかもほとんど無くて、大学や研究機関がメインだったからあまり面白くはなかった。しかしネット上に悪意を持った人間が少なかったんだろう、個人の名前や写真、メールアドレスがどこにでも出ていたし、メールを出したら結構返事が返って来ていた。思えば牧歌的な時代だったな。

 この間友人と話したんだが、今のネット社会であればわしも船乗りをやめなかったかもしれんな。パソコンやタブレットがあれば、様々な種類の本を図書館並みに詰め込めるし、ゲームも出来るし、金はかかるが外洋でも衛星を使ってネット利用ができるらしい。簡単なプログラムを作るのも面白いし、ゲームもやれる。昔のように、交代の人が持ってくる月遅れの週刊誌や、名ばかりの図書室しか無い船内で、十年一日の如く、麻雀をやって半年以上過ごすという特殊能力はわしには無かった。

 わしは船乗りになる前は、外国航路の船乗りと言えば、世界を見ているので視野も広いというイメージがあったが、自分がなってみると全くイメージが正反対だと気が付いた。去年あたりから、外国航路に長年乗り続けた同級生と話す機会が増えたが、個人差はあるんだろうが、ほぼ100%業界の話ばかりだ。わしは多少ともその業界に関わったから付き合えるが、知らない人は付き合えんだろうなと思った。べつにそれが悪いという事ではなく、仲間内ではそれが楽しい会話になるんだろう。

 そういえば2年前、クラス会で話しをした人は、ほぼ全員ガラケーだったのには驚いた。やっぱりわしみたいに、すぐに新しいものに飛びつくという性格の者には、あの業界は向いてなかったことは間違いないだろう。