無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10572日

 わしは余り子供と遊ぶのは得意ではないんだが、今日は長男の嫁を、銀行のローンセンターまで車で送って行って、そこで用が終わるまでの約1時間ほど孫を見る事になった。4歳児を楽しくあそばせる自信はないが、そこはよくしたもので、その銀行のローンセンターにはキッズスペースというのがあって、ビデオや絵本、積み木なんかが置かれていた。それを見て、わしもこれだけあれば、1時間位は楽勝だろうと、ひとまずほっとした。

 孫はすぐにそこに上がりこんで、絵本を見始めたので、わしも近くの椅子に座って、備え付けの日経新聞を広げた。4月から新聞を取るのをやめたので、久し振りの新聞だった。やはり新聞というのは読みやすいし、いろんな記事があって面白いことは面白いんだが、月3000円払って読みたいとは思わんな。そろそろ孫は絵本には飽きてきたようで、今度は積み木を並べ始めた。どうやら小さな町を作っているようだった。時々こちらを見ているようだが、下手に口を出して、一緒に遊ぼうと言われたら困るので、見てみぬ振りをしていた。

 10分位は遊んでいたようだが、積み木にも飽きたのか、とうとうわしの方へやってきた。さすがのキッズコーナーもそろそろ限界になったようだ。天気もいいし、商店街も近いので、散歩に連れ出した。アーケード街を歩いていると、小さな寺があり、境内が子供の遊び場になっていた。ブランコや滑り台があり、そこであと30分位は時間をつぶせそうな気がした。しばらくの間、機嫌良く滑り台で遊んでいたが、突然ズボンの前を押さえて、しっこが出ると言い出した。あわてて周りを見たが、トイレが無い。幸いなことに周囲に人がいなかったので、立ちションで済ませた。わしが子供の頃は当たり前の光景だったんだが、今ではちょっと気が引けるな。

 そのうちにアイスが食べたいといいだした。ちょうど寺の隣にあるお茶屋さんでアイスを売っていたので、買って2人で食べた所で、嫁から電話がかかってきた。わしはほとんど見ていただけなんだが、孫は楽しかったと話していたらしい。帰り際に、次来た時は、わしと一緒に路面電車に乗りに行きたいと言って、指切りをしたが、次回までに忘れていてくれたらうれしいんだがな。

あと10573日

 あと10575日に書いたように、協会けんぽに関してはもう終わったと思っていたが、今日、資格喪失証明書が届いて驚いた。資格喪失日が4月11日になっているではないか。支払い期限が10日だから、わしはてっきりその日までに4月分を払わないと、4月1日に遡って資格が喪失すものと考えていたんだが、これはちょっと困ったことになった。4月7日に女房が眼科に行って健康保険を使わずに、10割負担している。しかし4月7日はまだ協会けんぽが有効だったということだ。今からでもその眼科医院に、協会けんぽの保険証を持って行ければいいんだが、そんなこととは知らずに、既に保険証は返却したので手元には無い。どうしたらいいか、とにかく協会けんぽに電話で聞いてみることにした。

 わしは若い頃から電話が一番の苦手で、顔の見えない相手と話すのは嫌だった。そういう時は、代わって女房に電話してもらっていたんだが、今回もお願いしてしまった。これも一種のコミュ障といえるんだろうな。協会けんぽが言うには、「資格喪失日が4月11日と書いてある資格喪失証明書を眼科に持って行って、経緯を説明したら大丈夫だと思いますが、もしだめだと言われたら、こちらから説明しますので、電話してください。」と実に親切な対応だった。午後4時を過ぎていたが、女房がすぐに眼科医院に行って話をすると、何の問題も無く7割分返金してくれた。明日午前中に市役所に行って国保の手続きをすれば、今度こそ完了だな。

 今回の様な、生活する上で惹起されるであろう様々なトラブルも、今までにも数多くあったはずなんだが、全く覚えてないから、仕事の合間に何となく処理していたんだろう。少なくとも、今回のように面倒だと感じたことはなかったように思う。ハローワーク通いにしても今回の件にしても、退職したら自由な時間はいっぱいあるんだから、いつでも気軽にできると考えていたが、案外そうではなかった。逆に時間があるから、かえって億劫になるという現実も見えて来た。仕事をしているときは、それが生活のリズムを強制的に作り出しているので、雑用が入ってもリズムが乱れる事は無いが、今の生活は何の強制も受けない分、ちょっとしたことでリズムが乱されるというふうに理解したらいいのかな。

あと10574日

 わしが親父から桜井忠温の話を聞いたのは、まだ小学生の頃だった。ウィキペディアによると、桜井忠温は昭和40年死去となっているから、当時はまだ健在だったんだろう。親父は別に文学青年だったわけではないが、桜井忠温著『肉弾』は読んでいたようだった。親父からどんな話を聞いたかは忘れたが、日露戦争で大けがをしたが、奇跡的に生還したことや、『肉弾』という本を出版しているというようなことを、かすかに覚えている。その頃市内の公園に、「最も愛情あるものは最も勇敢なり」と揮毫した桜井忠温の碑ができていたようだから、ひょっとすると、この時の話は、その石碑ができた事に関係していたのかもしれない。

 実はわしはこの『肉弾』は読んだ事がないんだが、作者は善通寺第11師団が攻撃した、旅順要塞東鶏冠山の激戦で瀕死の重傷を負った。そして、死体扱いされていたが、火葬寸前に生きていることが確認され、助かったという希有な経験の持ち主だった。帰還後「肉弾」を執筆し、それが世界的ベストセラーになり、ずっと長い間、日露戦争と言えば『肉弾』、『肉弾』と言えば桜井忠温言われて来たようだが、戦後は知っている人のほうが少なくなってしまった。

 同じ頃、司馬遼太郎の『小説坂の上の雲』で有名になった秋山兄弟もいて、記念ミュージアムまで出来ている。大体、日露戦争を熱く語る人達の多くは、この本を種本にしていることが多い。小説なのに歴史書扱いされている珍しい本だが、わしの兄貴なんかもこの本に影響されて、秋山好古の死に際なんか、まるで見て来たように熱く語っていたな。以前の職場にも司馬マニアのTさんがいて、日本海海戦ノモンハン事件も語っていた。反論は一切受け付けないというマニアックな人だったな。

 わしは23歳のときから暇つぶしの小説は読まなくなった。しかし、3年前にアマゾンキンドルで100円で購入した、吉川英治全集の長編小説を全部読んだが、これはおもしろかった。特に『新平家物語』は長いが一気に読破した。もちろんこれは小説で、歴史書ではない。作者が歴史の間隙に、想像を膨らませて面白く仕上げているから面白いんであって、真実だから面白いのではない。これと同じ事で、『小説坂の上の雲』から得た知識で、歴史を語るのはやめてほしいと思うんだがな。特に、司馬遼太郎の乃木大将に対する評価は全く受け入れることはできんな。

あと10575日

 朝から、今にも雨が降り出しそうな天気だったが、自転車で10分ほどの所にある、G生命ビル5階、協会けんぽの事務所へ向かった。4月10日の期限までに、4月分の保険料を入金しないことで、原則2年の任意継続を、本当に1年でやめることができるのか、それがこれから明らかになる。ネットで見た限りではできるらしいが、さてどうなるか、嫌みのひとつでも言われるのかもな。必要と思われる書類と印鑑を入れたバッグを肩からかけて出発した。

 去年の3月に、協会けんぽの事務所で任意継続の手続きをした時、申請書類は4月になったら郵送するように言われた。家が近いし暇だから自分で持ってくると言うと、4月は混むので、来てもらっては困る。必ず郵送してほしいと念を押された。そのことが頭にあったので、今日はさぞかしごった返しているだろうと覚悟して来たんだが、中に入ると誰もいない。窓口の人が手を挙げてすぐに呼んでくれた。これにはちょっと拍子抜けしたな。

 わしが、持って来た任意継続被保険者資格喪失申出書と保険証を見せて、昨日で資格停止になったので、資格喪失証明書がほしいということを告げた。以下戯曲風に.....

けんぽ「えっ、4月分を払ってないんですか?」

わし「昨日払わなかったので、今日から停止になったはずです。そこで資格喪失証明書がほしいんですが。」

ーーーーけんぽ、かちゃかちゃとパソコンになにか打ち込むーーーー

けんぽ「4月分を払い込んでないのは間違いないですね。」

わし「間違いありません。」

けんぽ「今日、印鑑はお持ちですか?」

わし「はい、持っています。」

けんぽ「では、この用紙(任意継続被保険者資格喪失申出書)は必要ありませんので、こちらの用紙に署名捺印してください。」

ーーーーけんぽ、『4月分保険料不払い証明書』と書かれてある用紙を机から取り出す。 わし、それに署名捺印して提出する。ーーーーーーーーーー

けんぽ「これで結構です。保険証も返却されましたので、手続きは完了しました。」

わし「ところで、資格喪失証明書は今いただけますか?」

けんぽ「すみません。これは郵送することになっていますので、後日になりますが、今週中には、お手元にお届けできると思います。長い間、有り難うございました。」

わし「こちらこそ有り難うございました。よろしくお願い致します。」

 

 まあこんな感じで事務的に、あっけなく終わった。わしはもう、死ぬまで協会けんぽのお世話になることはないので、このことは既に過ぎ去った過去の出来事になってしまった。次にすべき事は、今週中に資格喪失証明書が届いたら、市役所に持って行って、国民健康保険の申請をすることだな。

あと10576日

 有り難い事に、わしは若い頃から視力は良かったので、見る事に関してはなんの不自由も感じた事はなかった。だから、近視で遠くが見えにくいとか、乱視で歪んで見えるとかいうのがどんな状態なのか、全く想像できなかった。40歳までは、5cmから無限大まですべてにピントがあっていたんだから、今から考えるとそれは驚異的なことだったんだな。40歳くらいの時に、なんかで一度眼科にかかったことがあった。その時にいろいろ検査をした後、診察をした院長が、どこも異常はないと伝えてから、自分は長年眼科医をやっているが、これほど完璧な眼はみたことがないと言った。

 それほど完璧だったんだろうが、それだからこそと言った方がいいのか、それから20数年の間の眼の老化は、人以上のものだった。近視の人なら早くから眼鏡をかけているので、抵抗はないだろうが、40半ばで眼鏡をかける事は、精神的にも、物理的にも抵抗があった。さらに細かい仕事ができなくなったし、活字を見るのが億劫になった。いくら眼鏡をかけて調節しても、以前見ていた世界とはやっぱり違う。どっかで読んだ事があるが、一生通して見るならば、人間は若い時から、ちょっと近視くらいがいちばん良いということらしい。

 なまじっか完璧な眼を持っていたので、そのぶん眼の老化が一番堪える。今でも遠くは解像度も高く、はっきりと見えるが、近くはさっぱりで、その落差には今でも悩まされる。遠近両用の眼鏡をかけはじめたのは、15年前、出張で東京に行ったとき、地下鉄の路線図を見て料金を調べて、財布から金を出そうとした時、硬貨がぼやけて見えなかったからだ。65歳になれば、体のあちこちにガタが来て、若い時のように動けない、膝が痛い、腰が痛い等いろいろあるが、神様に1つだけ若いときの状態に戻してやると言われたら、わしなら迷わず眼を戻して下さいと頼むだろうな。

 5〜6年前に飛蚊症のような症状があらわれたので、眼科にかかったんだが、診察した医師は、「これは単なる老化現象だから、治療の対象外ですね。急に増える様な事があれば、また来て下さい。」と言っとったな。パソコンやスマホもほどほどにして、老眼鏡で補正しながら、だましだましやっていくしかないんだろう。

あと10577日

 3月末に、3日ほど長男の引っ越し手伝いに行った後、女房が体調を崩している。体力的に無理があったんだろう。少しは年を考えないとな。女房は何でも手早いので、引っ越しなんかでも非常に役に立つんだが、とにかく真面目にやりすぎる。健康のためには手抜きも必要なんだがな。まあそれは仕方が無いんだが、4月から健康保険を任意継続の協会けんぽから国保に変えるために、保険が使えない状態になっている。ひとまず10割払っとけば病院にかかる事も出来るが、なるべく面倒なことはしたくない。それで辛抱していたんだが、目やにが大量にでるようになり、声が出なくなったので、とうとう眼科にいくことにした。

 女房はコンタクトレンズをしているので、定期的にかかる眼科医院がある。そこで診てもらったところ、どうやらアデノウィルス(所謂プール熱)によるもので、体力が落ちたので、出てきたんだろうということになり、薬をもらって帰ってきた。窓口でひとまず10割払っておいて、新しい保険証を持ってくれば7割返してくれることになった。わしは、後から自分で国保に請求して、7割返還してもらうのかと思っていたんだが、病院の窓口で返してもらえるなら、なんの面倒も無い。けちくさい事言わずに、もっと早く病院に行ってもよかったのかもしれんな。

 明日10日が協会けんぽ4月分保険料支払い期限日で、11日になれば資格が喪失する。任意継続の場合、2年が原則で、1年で止めるためには保険料を支払わないで、向こうから資格を停止してもらうしか方法は無い。こう言ってしまえば簡単なようだが、これなんかもハローワーク通いと一緒で、実際にやってみると、いろいろ困難が伴うものだ。今のままで、もう1年継続するのが簡単でいいんだが、国保に変えると、保険料が協会けんぽの3分の1になるんだから、面倒くさいなんて言ってはおれんわな。

 あとは11日の朝いちで、協会けんぽの事務所に、資格喪失届と保険証を持って行くだけだ。資格喪失証明書をその場でもらえるか、郵送になるかは知らないが、それと、確定申告の書類を、市役所に提出すれば完了だ。これで面倒な事がひとつ終わる。

あと10578日

 昭和20年4月7日は、戦艦大和以下6隻が沈没した、坊ノ岬沖海戦があった日だ。わしは30歳位のとき、吉田満著『戰艦大和の最期』を読んで、その全貌を知ることができた。『丸』なんかで断片的には知っていたが、まとまった本として読んだのは、この本が初めてだった。わしの持っている『戰艦大和の最期』はハードカバーで、吉田満のサイン入りだ。昭和27年8月30日初版発行で、わしのは昭和27年11月30日6版発行、定価160圓、地方定価165圓と書いてある。東京以外は5圓高かったんだな。

 昭和57年だったと思うが、俳句のB先生が亡くなられた後、奥様から遺品整理をしているので、いるものがあればあげますよとお誘いをうけて、大急ぎで、買ったばかりのスズキGSX400で駆けつけた。わしは本が好きだったので、まず本棚を見せてもらった。どれでも好きな本があれば持って行っていいといわれたので、松根東洋城が持っていたらしい、戯曲を数冊抜き出し、さらに探していたとき、ふと目についたのがこの『戰艦大和の最期』だった。

 題名は聞いた事があったが、実際に見たのはそのときが初めてだった。本の帯には「占領下七年を經て全文發禁解除」と大きく書かれており、どうやらGHQに発行を禁止されていたようだ。表紙の上にかけてあるセロファン紙もそのままで、その当時で既に30年経っているわりにはきれいな本だった。それらをいただいて帰るときに、玄関に積んでいる段ボールの中に、松根東洋城の手紙類があるのに気が付いた。これはどうするのか聞いてみると、捨てるというので、それも貰って帰ることにした。奥様に確認した所、夏目漱石や著名人からのものは入ってないということだった。

 じつはわしが急いでやって来たのには訳があった。わしはB先生が、松根東洋城の帝大や京都帝大時代から、亡くなるまでの全ての日記帳を持っていたのを知っていたので、それがどうなったかが気になっていた。しかし、奥様に尋ねても知らないというし、以前わしが見せてもらった、B先生の部屋にも置いてなかった。B先生に、いいものをみせてあげようと言われて、部屋に案内されて、そこで見たんだから、無いはずは無い。誰かが持って行ったんだろうが、奥様もあまり興味がないようで、結局わからずじまいだった。価値のわかる、しかるべき人の手に渡っていればいいんだが。