無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10569日

 近所の1000円カットの店が新装開店で、本日のみカット540円でやっていたので行って来た。9時開店なんで、5分前に行くと入り口は開いていて、既に4人が椅子に座っていた。じいさん2人ばあさん2人で、男女半々というのにはちょっと驚いた。見た所、わしよりはかなり年長のようだった。この後も客は女性のほうが多かったから、理容師だろうが美容師だろうが、カットだけなら安い方がいいという女性が増えて来ているんだろう。若い2人の理容師がいたが、2人とも人当たりもよく、なかなか上手で、気持ちよかった。

 わしは若い頃から散髪には金をかけないほうで、カットに3000円も払おうとは思わない。息子等は予約して馬鹿高いところに行っているが、これは価値観の違いだから仕方が無い。わしが中学生のとき、家の近くに安い店があった。理容師の組合に入ってないので、月曜日にもやっているし、料金が大人50円で格安だった。当時100円か200円かそれ位していたと思うが、とにかく驚くほど安かった。

 わしは友達に勧められて行ってみたんだが、入り口を開けて中に入ると、床が土間で椅子が2台置いてあった。呼ぶと、薄汚れた白衣を着た主人が、ガムかなにか噛みながら奥から出て来た。椅子に座って店の中を見回すと、櫛と鋏とが入れてあるケースに殺菌済みと書いてあった。ほう、こんな汚い店でも一応殺菌はしとるのかと感心してみたが、よく見ると、紫外線灯がついてない。単なる飾り物で、これじゃあ殺菌はできんだろう。主人はその中から櫛と鋏を取り出して仕事にかかった。技術的には不満はなかった。ただ一番最後に顔にタオルをかけるんだが、このタオルというのが使い古したような代物で、わしはその間息を止めていたが、これだけは勘弁してほしかった。いくら安くても兄貴も親父も一度も行かなかったが、わしは高校1年まで行った。今ならあの設備では認可されないだろうな。

あと10570日

 わしは昭和35年、小学校3年生の4月から転校した。別に転校したかったわけではないが、親が決めたんだから仕方が無かった。兄貴も、幼稚園からの友達もその小学校に通っていたので、親はわしもそこの行きたいんだろうと気を利かしたようだった。実際はそうでもなかったんだけどな。

 3月に筆記試験があり、その日の午後に結果発表、合格者のみくじ引きがあった。其の時は2名の募集に30名近く応募者があったようだ。たかが小学生の編入試験だから筆記試験で落ちるものはほとんどいなくて、あとはくじ引きだが、この時はすごい倍率だった。わしは5〜6番目に、お盆の上に乗せられてあった、30ほどの小さな和紙の包みの中から一つを選んで、横の先生に渡した。受け取った先生が、それをわしの目の前で開けて行く途中で、薄らと赤いものが見えて来た。何と書いてあったのか忘れたが、朱印が押してあり、先生がそれを会場に示して合格ですと言った。

 付いて来ていたおふくろも、兄貴もみんなこの倍率ではだめだろうと思っていたらしい。単に運がよかっただけのことなんだが、くじ運というのが本当にあると実感したのはこれからだった。それから暫くは、近所の駄菓子屋でくじを引いたらよく当たるし、漫画雑誌の懸賞にも当たるし、考えられないような幸運が続いた。それ以後こういう経験は無いから、ひょっとすると、一生のくじ運をこの数週間で使い果たしたと言えるのかもしれんな。

 それから1年後に友達のK君がこの学校の編入試験を受けた。この時は4名の募集に応募者5名の広き門だった。これは大丈夫だろうと、K君のお母さんもわしらも余裕で眺めていた。しかもK君は一番最初にくじを引くから、まさか1つしか無い「スカ」を引く事は無いだろうとみんなが確信していた。ところがなんと、くじを引いたK君が頭をかきながらこちらへ歩いて来るではないか。K君は「スカ引いたわい。」と苦笑いしていたが、わしは何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。当然残った4人は全員合格で、全くK君の独り相撲に終わった感があった。出来る事なら前年のわしのくじ運の半分でもわけてやりたいような気持ちだったな。

あと10571日

 女房の兄は7〜8年前に、脳幹出血で倒れて車いすの生活になっている。不幸中の幸いとでもいうのか、倒れたのが17時頃で、偶然にも会社の駐車場だった。すぐに救急車を呼んでもらえたので、わしらが急いで病院に駆けつけた時には、まだ意識があった。しかし、その後どんどん悪化していって、23時くらいに医者に呼ばれて、おそらくもうだめかもしれないと言われた。意識はないし、居ても用もないので、おふくろさんを残して、わしらはひとまず家に帰った。

 翌朝、今日で終わりかと思いながら、病院に行ってみると、驚いた事に、出血が止まって、脳圧が下がってきたということで、意識も戻っていた。医者の説明によると、死ぬ事は無いが、車いす生活になるらしい。わしらはみんな、死ぬ事に比べたら、たとえ車いすでも、命があるだけラッキーな事だと喜んだ。女房の父親のときは、初めは治ると言われていたが、まるで坂道を転がるように、あれよあれよという間に、悪化して死んでしまった。この時はそれとは全く逆で、もうだめだと言われていたのが、奇跡的に生き永らえた。寿命といえばそれまでなんだろうが、三途の川を渡り切るかどうかは、医学の技術なんかを超越した、何かの忖度が働いているのかもしれんな。

  命は永らえたが、それからは大変だった。リハビリができる病院に転院して、機能回復に励んだが、左半身不随が治る事はなかった。一生車いす生活はわかっていたが、いざ、その生活が始まってみると、本人の体格がネックになった。というのも、身長が190cm体重が90kgほどあったので、元気な時は、わしらが見上げるくらいの大男だったが、身障者になると、失礼な言い方かもしれんが、無駄に大きいんだな。女性1人では手に負えないこともあったりして、わしらも困った。元気なうちはいいが、大きいのも程々にしとかんと、寝込んだら大変だとみんなが実感したな。

 本人は18歳からずっと厚生年金を払ってきたので、すぐに障害年金がでるようになり、比較的安い施設にも入れて、生活に困る事はなかったが、その施設は建前上65歳になると出なくてはならないようだ。離婚して一人暮らしだったので、女房が時々施設を訪ねて、世話をしている。女房もいろいろ福祉関係の勉強をして、けっこう物知りになっているが、こんな知識にお世話になることなく、元気に一生を送る事ができたら、それだけで幸せな事だとつくづく思う。

 

あと10572日

 わしは余り子供と遊ぶのは得意ではないんだが、今日は長男の嫁を、銀行のローンセンターまで車で送って行って、そこで用が終わるまでの約1時間ほど孫を見る事になった。4歳児を楽しくあそばせる自信はないが、そこはよくしたもので、その銀行のローンセンターにはキッズスペースというのがあって、ビデオや絵本、積み木なんかが置かれていた。それを見て、わしもこれだけあれば、1時間位は楽勝だろうと、ひとまずほっとした。

 孫はすぐにそこに上がりこんで、絵本を見始めたので、わしも近くの椅子に座って、備え付けの日経新聞を広げた。4月から新聞を取るのをやめたので、久し振りの新聞だった。やはり新聞というのは読みやすいし、いろんな記事があって面白いことは面白いんだが、月3000円払って読みたいとは思わんな。そろそろ孫は絵本には飽きてきたようで、今度は積み木を並べ始めた。どうやら小さな町を作っているようだった。時々こちらを見ているようだが、下手に口を出して、一緒に遊ぼうと言われたら困るので、見てみぬ振りをしていた。

 10分位は遊んでいたようだが、積み木にも飽きたのか、とうとうわしの方へやってきた。さすがのキッズコーナーもそろそろ限界になったようだ。天気もいいし、商店街も近いので、散歩に連れ出した。アーケード街を歩いていると、小さな寺があり、境内が子供の遊び場になっていた。ブランコや滑り台があり、そこであと30分位は時間をつぶせそうな気がした。しばらくの間、機嫌良く滑り台で遊んでいたが、突然ズボンの前を押さえて、しっこが出ると言い出した。あわてて周りを見たが、トイレが無い。幸いなことに周囲に人がいなかったので、立ちションで済ませた。わしが子供の頃は当たり前の光景だったんだが、今ではちょっと気が引けるな。

 そのうちにアイスが食べたいといいだした。ちょうど寺の隣にあるお茶屋さんでアイスを売っていたので、買って2人で食べた所で、嫁から電話がかかってきた。わしはほとんど見ていただけなんだが、孫は楽しかったと話していたらしい。帰り際に、次来た時は、わしと一緒に路面電車に乗りに行きたいと言って、指切りをしたが、次回までに忘れていてくれたらうれしいんだがな。

あと10573日

 あと10575日に書いたように、協会けんぽに関してはもう終わったと思っていたが、今日、資格喪失証明書が届いて驚いた。資格喪失日が4月11日になっているではないか。支払い期限が10日だから、わしはてっきりその日までに4月分を払わないと、4月1日に遡って資格が喪失すものと考えていたんだが、これはちょっと困ったことになった。4月7日に女房が眼科に行って健康保険を使わずに、10割負担している。しかし4月7日はまだ協会けんぽが有効だったということだ。今からでもその眼科医院に、協会けんぽの保険証を持って行ければいいんだが、そんなこととは知らずに、既に保険証は返却したので手元には無い。どうしたらいいか、とにかく協会けんぽに電話で聞いてみることにした。

 わしは若い頃から電話が一番の苦手で、顔の見えない相手と話すのは嫌だった。そういう時は、代わって女房に電話してもらっていたんだが、今回もお願いしてしまった。これも一種のコミュ障といえるんだろうな。協会けんぽが言うには、「資格喪失日が4月11日と書いてある資格喪失証明書を眼科に持って行って、経緯を説明したら大丈夫だと思いますが、もしだめだと言われたら、こちらから説明しますので、電話してください。」と実に親切な対応だった。午後4時を過ぎていたが、女房がすぐに眼科医院に行って話をすると、何の問題も無く7割分返金してくれた。明日午前中に市役所に行って国保の手続きをすれば、今度こそ完了だな。

 今回の様な、生活する上で惹起されるであろう様々なトラブルも、今までにも数多くあったはずなんだが、全く覚えてないから、仕事の合間に何となく処理していたんだろう。少なくとも、今回のように面倒だと感じたことはなかったように思う。ハローワーク通いにしても今回の件にしても、退職したら自由な時間はいっぱいあるんだから、いつでも気軽にできると考えていたが、案外そうではなかった。逆に時間があるから、かえって億劫になるという現実も見えて来た。仕事をしているときは、それが生活のリズムを強制的に作り出しているので、雑用が入ってもリズムが乱れる事は無いが、今の生活は何の強制も受けない分、ちょっとしたことでリズムが乱されるというふうに理解したらいいのかな。

あと10574日

 わしが親父から桜井忠温の話を聞いたのは、まだ小学生の頃だった。ウィキペディアによると、桜井忠温は昭和40年死去となっているから、当時はまだ健在だったんだろう。親父は別に文学青年だったわけではないが、桜井忠温著『肉弾』は読んでいたようだった。親父からどんな話を聞いたかは忘れたが、日露戦争で大けがをしたが、奇跡的に生還したことや、『肉弾』という本を出版しているというようなことを、かすかに覚えている。その頃市内の公園に、「最も愛情あるものは最も勇敢なり」と揮毫した桜井忠温の碑ができていたようだから、ひょっとすると、この時の話は、その石碑ができた事に関係していたのかもしれない。

 実はわしはこの『肉弾』は読んだ事がないんだが、作者は善通寺第11師団が攻撃した、旅順要塞東鶏冠山の激戦で瀕死の重傷を負った。そして、死体扱いされていたが、火葬寸前に生きていることが確認され、助かったという希有な経験の持ち主だった。帰還後「肉弾」を執筆し、それが世界的ベストセラーになり、ずっと長い間、日露戦争と言えば『肉弾』、『肉弾』と言えば桜井忠温言われて来たようだが、戦後は知っている人のほうが少なくなってしまった。

 同じ頃、司馬遼太郎の『小説坂の上の雲』で有名になった秋山兄弟もいて、記念ミュージアムまで出来ている。大体、日露戦争を熱く語る人達の多くは、この本を種本にしていることが多い。小説なのに歴史書扱いされている珍しい本だが、わしの兄貴なんかもこの本に影響されて、秋山好古の死に際なんか、まるで見て来たように熱く語っていたな。以前の職場にも司馬マニアのTさんがいて、日本海海戦ノモンハン事件も語っていた。反論は一切受け付けないというマニアックな人だったな。

 わしは23歳のときから暇つぶしの小説は読まなくなった。しかし、3年前にアマゾンキンドルで100円で購入した、吉川英治全集の長編小説を全部読んだが、これはおもしろかった。特に『新平家物語』は長いが一気に読破した。もちろんこれは小説で、歴史書ではない。作者が歴史の間隙に、想像を膨らませて面白く仕上げているから面白いんであって、真実だから面白いのではない。これと同じ事で、『小説坂の上の雲』から得た知識で、歴史を語るのはやめてほしいと思うんだがな。特に、司馬遼太郎の乃木大将に対する評価は全く受け入れることはできんな。

あと10575日

 朝から、今にも雨が降り出しそうな天気だったが、自転車で10分ほどの所にある、G生命ビル5階、協会けんぽの事務所へ向かった。4月10日の期限までに、4月分の保険料を入金しないことで、原則2年の任意継続を、本当に1年でやめることができるのか、それがこれから明らかになる。ネットで見た限りではできるらしいが、さてどうなるか、嫌みのひとつでも言われるのかもな。必要と思われる書類と印鑑を入れたバッグを肩からかけて出発した。

 去年の3月に、協会けんぽの事務所で任意継続の手続きをした時、申請書類は4月になったら郵送するように言われた。家が近いし暇だから自分で持ってくると言うと、4月は混むので、来てもらっては困る。必ず郵送してほしいと念を押された。そのことが頭にあったので、今日はさぞかしごった返しているだろうと覚悟して来たんだが、中に入ると誰もいない。窓口の人が手を挙げてすぐに呼んでくれた。これにはちょっと拍子抜けしたな。

 わしが、持って来た任意継続被保険者資格喪失申出書と保険証を見せて、昨日で資格停止になったので、資格喪失証明書がほしいということを告げた。以下戯曲風に.....

けんぽ「えっ、4月分を払ってないんですか?」

わし「昨日払わなかったので、今日から停止になったはずです。そこで資格喪失証明書がほしいんですが。」

ーーーーけんぽ、かちゃかちゃとパソコンになにか打ち込むーーーー

けんぽ「4月分を払い込んでないのは間違いないですね。」

わし「間違いありません。」

けんぽ「今日、印鑑はお持ちですか?」

わし「はい、持っています。」

けんぽ「では、この用紙(任意継続被保険者資格喪失申出書)は必要ありませんので、こちらの用紙に署名捺印してください。」

ーーーーけんぽ、『4月分保険料不払い証明書』と書かれてある用紙を机から取り出す。 わし、それに署名捺印して提出する。ーーーーーーーーーー

けんぽ「これで結構です。保険証も返却されましたので、手続きは完了しました。」

わし「ところで、資格喪失証明書は今いただけますか?」

けんぽ「すみません。これは郵送することになっていますので、後日になりますが、今週中には、お手元にお届けできると思います。長い間、有り難うございました。」

わし「こちらこそ有り難うございました。よろしくお願い致します。」

 

 まあこんな感じで事務的に、あっけなく終わった。わしはもう、死ぬまで協会けんぽのお世話になることはないので、このことは既に過ぎ去った過去の出来事になってしまった。次にすべき事は、今週中に資格喪失証明書が届いたら、市役所に持って行って、国民健康保険の申請をすることだな。