無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10551日

 3月18日に亡くなった従兄弟のJさんの四十九日法要があった。今回もわしと、従兄弟のMさん、Rさんの3人で出席した。今回は自宅での法要のあと、納骨があったが、あの地区の墓地へいくのは本当に久し振りだった。おふくろが元気な頃はお彼岸になると、車で一緒にお参りしていたが、死んでからは行く事はなくなった。昔は田んぼの中にあって、聞こえて来るのは野鳥の声、風の音くらいで、後は何も聞こえて来なかったが、40年位前に200mほど先を国道が通り、さらに50mくらい南に県立高校ができたので、今では以前程の静寂は無くなった。わしの好きは場所だったんだが、残念な事だ。

学帽を手に振り仰ぐ春日かな

これは昭和42年、高校に入学する3月に墓参りに行ったときの俳句だ。当時はみんな制服制帽だったんだな。校章のついた帽子には2本の白線が入り、うれしかったんだろう。

 昭和30年代には、お盆の時にはわしら兄弟も、RさんもMさんも、みんなこのJさんの家に集まって一日遊んでいた。夕方になるとみんなでワイワイ話しながら、お墓にお参りに行っていたが、その途中に、両岸が草むらに覆われた、幅3mくらいの川が流れていた。その川の横を歩いている時、おふくろが、この川の土手には昔は狸がおって、きれいな声で鳴きよったんよと、話してくれたことがあった。今では聞こえて来ないから、たぶん住んでないんだろうと言っていたが、その当時は、まだおふくろが子供の頃だった、昭和の初期の風景とほとんど変ってなかったようだ。

 Jさんの家は20年程前に、立派な家に建て替えられて、当時の面影は全く残っていない。周辺も新しい家が増え、あの川もコンクリートで固められてしまって、昔日の面影はもうない。納骨後、お墓からRさんの車でJさんの家に向かう途中、3人で昔話に花が咲いたが、わしらだけで話しているときは、気持ちは十代にかえっているが、周囲の若い人には、年寄りの与太話位にしか聞こえないんだろう。昼飯のとき、Rさんがわしに「○○ちゃん、見てみ、この中にわしらより年上はほとんどおらんぞ。ほんとわしらもじじいになったんじゃな。」とつくづく話とったな。

あと10552日

 昨日で2年目にはいったことを書いたが、1年経とうが2年経とうが過ぎた事は忘れるに限る。重荷はできるだけ勘弁してもらって、あの世への旅路は身軽に行きたいものだ。この一年、振り返らない、反省しない、溜め込まない、吟味しない、忘れる、ということを心がけてきた。特にわしの場合、かっとしやすい性格だったので、以前は人との関わりにおいて、後から反省する事が多かったが、この一年わしは怒る事をやめたし、人ともほとんど関わらなくなったので、わし自身が嫌な思いをすることは無くなった。

 忘れるということもなかなか難しいことで、記憶の片隅にあるものが、突然浮かび上がってくることがある。その時にそれを取り上げて、記憶に再度インプットし直すことをしたら、その記憶は整理されて確定してしまうような気がする。忘れたい事は、浮かんで来ても相手にせず、放置しておくに限る。しかし、あまり忘れてしまうと、自分でも痴ほうが進んでいるのではないかと、多少不安になる事もあるので、このブログを書くということは、そうではないということを自分に証明するための、一つの手段になっているといえるのかもしれない。

 年をとってよかったと言えることは、先の事を考えなくてもよくなったということだろう。子供も一人前になって、わしの責任は果たしたし、あとは自分で考えてやっていけばいい。女房は子供や子供の嫁等にもあてにされているし、仕事もしているからいてもらわなければ困るが、一日家にいて何をしているのかわからない様な、わしなんかがいようがいまいが、家族にはほとんど影響がなくなった。これがさびしいと思う男が多いようだが、わしにとっては、この存在感の無さこそ、長年求めてやまなかったものだ。

 そうはいっても、やはり体力の衰えだけは嫌になるな。今の精神状態で20代の体力があれば、あと10552日それは楽しく人生を送る事ができるような気もするが、実際そうなると、それはそれで、いつまでも今生にしがみついて、見苦しい最後になるのかもしれんな。まあ頭も体も弱って、ほどほどに死んでいくのが、家族のため、社会のためになるんだろうな。

あと10553日 ブログ1年

憲法記念日 国旗掲揚せず  

 去年の5月3日(火)憲法記念日に『無駄に生きるとはどういうことか』というブログを書き初めて1年、365日経った。去年3月31日で仕事をやめて、4月から生活が大きく変わった。さまざまな気持ちの変化もあった。わしは終わったブログを読み返すということはほとんどしない。ただ書く事によって、頭の中にある記憶の残滓を捨て去ることができたら、どんなに良いかと思っている。しかし、今日は丁度1年ということで、あまり意味は無いとは思うが、それでも年に1回くらいは振り返ってみるとするかな。

 ちなみに、わしは今の日本国憲法は改正あるいは新しく自主憲法を制定すべきだと考えている。したがって、憲法記念日には、国旗掲揚をしない事にしている。

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あと10918日 はじまり

憲法記念日 国旗掲揚しない

 平成28年3月31日で仕事を辞めた。定年退職後の5年再雇用の契約だったが、あと1年を残して辞めてしまった。経済的な損得で言えば明らかに損だ。女房にはいろいろ文句を言われた。また、周囲からは何かやりたいことがあるのですかとよく聞かれたが、そんなものは無い。生きるために生きてきただけで、別に何かをやりたいがために生きてきたわけではない。生きる手段として仕事を持ち、家族を養い、子供を育て、両親を見送り、仕事をやめた。あとわしが死ねば1つのサイクルが完結することになるが、さていつのことか。

 去年叔父が亡くなったときに叔母から面白い話を聞いた。うちの一族は癌にならなければ94歳まで生きる長生きの家系らしい。そういえばわしの親父も94歳で死んだ。祖母も、親父のいとこ連中もみんな94歳らしい。この話をしてくれた叔母は88歳というので、よせばいいのに「それでは叔母さん、あと6年しかないがな。」と思わず言ってしまった。さすがに少しにムッとしていた。どうやらもっと生きる気らしい。

 3月で辞めたのはこの話が関係している。64歳で辞めれば丁度あと30年になる。今しかないと思った。わしはずっと集文館の3年手帳を使っているが、その4月1日の項目に10950と記入しておいた。365*30で94歳までのおおよその残日数だ。今日5月3日は10918、すでに33日過ぎている。

過去を振り返り、先を見通し、現在を生きる。残された日数すべてを価値あるものとできればいいが、たとえ結果的にそれらが無駄であったと感じたしても一向にかまわない。無駄であるなら精一杯無駄に生きればいいだけだ。

あと0日になるまでじっくり見ていきたい。


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あと10554日

 昭和50年の2月頃、わしはニューヨークで、3国間輸送のタンカーを下船して、日本へ帰ってきた。次の寄港先がロッテルダムのユーロポートということを知っていたら、もう一航海したんだが、この会社は出港直前になるまで何処に行くかわからなかった。極端な場合、○○方面としてひとまず出港し、航海中に行き先が確定することもあったくらいだ。わしの経験の範囲でも、ニューヨークからアフリカのガボンのケープロペへ向けて出港したのに、途中でバハマのフリーポートに変更になり、進路を大きく変えたことがあったが、こんなことは日本船では考えられなかった。

 さすが今でもスーパーメジャーとして石油マーケットを支配している会社だけあって、原油をとにかく安い所で積んで、高い所で売ることに徹底していた。実際に見た訳ではないが、サンフランシスコの本社の一室には、全支配船舶の現在地と、各地の原油の値段が一目で分かるボードがあり、そこで1セントでも安い売り手があれば、そこに一番近い空船を向かわせ、1セントでも高い買手があれば、そこに一番近くにいる満載した船を向かわせるというようなことをやっていたらしい。こんなこと今では当たり前かもしれないが、44年前に聞いた時は信じられなかった。

 福利厚生も進んでいて、業務用大型洗濯機、乾燥機、アイスキューバー、映写室、35mm映画フィルム、シャワートイレ付きの部屋等、わしの知っている日本の貨物船では考えられなかった。また、毎朝のミルクは絶対切らしてはならないということで、会社から厳しくチェックされていた。コスト意識もしっかりしていて、乗組員は全員日本人だったが、もともとは勿論アメリカ人で、その人件費が高くなると、北欧人に代わり、さらにイタリア人ときて次が日本人だった。日本人の人件費が高くなると、つぎは韓国人に代わったらしい。給料がドルでもらえるから、1ドル360円だったころは、夢の様な高給取りだった。昭和44年頃といえば、大卒初任給は3万くらいだったようだが、当時22歳の先輩が手取り15万もらっていた。今の値打ちで言えば100万越えだろうな。わしなんかもドルをもらって喜んでいたんだから、為替レートからみると、まだまだ敗戦国民だったようだ。今でこそ日本も偉そうに言っているが、当時は見る事聞くこと、とにかくアメリカはスケールが大きかったな。

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あと10555日

 定年で仕事を辞めたら、犬の花子を連れて車中泊をしながら旅をしようと考えていた。小太郎は女房に依存していて、女房がいないと生きて行けないので、これは初めからあきらめていた。そこで、それまで13年乗ったプレマシーを買い替える時に、車中泊にも使える車を探すことにした。いろいろ調べてみると、軽のバンが比較的安く、床もフラットになるらしいので、これにしようとほとんど決めていたんだが、やっぱり5人乗れたほうがいいと、女房が言うし、3速オートマいうのも、長い距離を走るのにはしんどいかなと考えて、軽はあきらめた。3列シートならすべての条件はクリアできるが、でかい車を買う気はなかったし、車に金をかけたくもなかった。

 条件としては、1000ccから1500ccの中古の小型車で、後ろのシートを倒したら170cm以上のスペースが確保できて、更に床がほぼフラットになるということになるが、この条件を満たす車はそれほど多くはない。トヨタヴィッツファンカーゴ、ホンダフィット、スズキソリオ、マツダデミオを調べて回ったが、ファンカーゴとフィット以外はフラットにならないことがわかった。ファンカーゴは既に製造が終わっていたので、フィットを探す事にした。

  フィットの荷室も完全フラットではないが、すのこを敷いて上にマットを置けばほぼフラットになるし、わしの身長なら、少し斜めに寝ると足を伸ばす事ができることがわかった。アルミ発砲エチレン断熱シートで窓の覆いを作り、夜間用のLEDランタンやインバーター、寝袋等必要と思われるものをだいたい揃えたので、暑くならないうちに、まずは家から3時間位で行ける道の駅に1泊してみる事にした。

 そのことを女房に話すと、実際に行く前に一度ぐらい車庫内の車で寝て、試してみといたほうがいいんじゃないのかと言い出した。確かに言われてみればその通りなので、その晩、花子と一緒に車中泊することにした。ところが、犬の習性からか、車の中をくんくん匂いを嗅いで回るし、ドアを開けろといってガリガリ引っ掻くし、家の前を人が歩く度にわんわん吠えるし、狭い車内を休みなく動き回るので、わしも寝る事ができない。結局2時間位で諦めて、車中泊は中止になった。

 たまには女房の言う事もきいてみるもので、ほんとうに出かける前に試してみといてよかった。あのまま出かけたら、睡眠不足で大変な事になるところだった。これで花子も無理だとわかったが、かといって1人で行く気にもならず、ぐずぐずしているうちに、いつのまにか熱も冷めてしまった。

あと10556日

 昭和48年10月に卒業後、家で1ヶ月試験勉強をして、甲種1等機関士と機関長の筆記試験を受けるために広島に渡った。試験期間は5日間だったが、無謀にも、前もって宿もとらないで出かけて行ったように記憶している。友人もたくさん来るので、なんとかなるだろうと気にもかけていなかった。この時、当時花形だった水中翼船に初めて乗ったが、思った以上のピッチの早い揺れで、音戸のあたりで船酔いしてしまった。これから船乗りの国家試験を受けにいくのに、船酔いするとは縁起でもないと、なんか嫌な予感がしたな。

 海運局の前で集合して話を聞いた後、明日からの試験に備えて宿へ散らばるんだが、さあどうしようかと思案していたら、Y君が1人増えても大丈夫だからと誘ってくれた。ついていくと、そこは宇品港近くのラブホテル街にある木賃宿で、総勢8人が3つの6畳間に泊まる事になった。部屋は古く、汚かったが、2食付きでとにかく安かった。部屋に入ってテレビをつけたら、ちょうど「サインはV」をやっていたな。今から思えば、この木賃宿で過ごした数日が、同じ目的を持った気の合った者同士で、何のわだかまりも無く和気あいあいと過ごした、青春の最後の日々だったといえるのかもしれんな。ただ、隣の連れ込み旅館から、時々聞こえて来る喘ぎ声には参った。

 翌日から2日間続いた甲種一等機関士の試験が終わり、わしは結構手応えがあったし、もう1人、Y君も自信があったようだったが、残り6人は、不合格間違いないと言って、機関長は受けずに、さっさと家に帰ってしまった。にぎやかだった宿も、わしとY君だけになって、急に火が消えたように静かになってしまった。人が減って行くというのはいやなもんだ。さて、わしはこの時、甲種1等機関士は合格して採用となり、11月24日に名古屋港から乗船することになった。落ちた6人は来年2月の試験に再挑戦することになった。

 たったこれだけのことだが、この頃までは時間がゆっくり、穏やかに流れていた。しかしその後、押し寄せて来た奔流に、なす術も無く流されていったその後のわし自身の生き様を考えてみる時、それは無知故に、そう感じていただけなのかもしれないが、実に幸せな事で、もはやその頃の時間の流れを懐かしんでも、残念ながらその欠片さえも感ずることができなくなってしまったということに、気づかざるを得ない。他の7人はどうだったんだろうな。

 

あと10557日

 わしは16歳で全寮制の学校にいって、それから5年と半年、団体生活を経験したが、同じ事を子供にやってほしいとは思わなかった。全寮制での生活は、これを実現したいという強い欲求がなければ、勤まる物ではない。今そういう状況で全寮制の学校といえば、防衛大学校とか海上保安大学校とか、将来団体で仕事をしなければならない特殊な学校が多いが、そういう学校を目指す学生は、全寮制も当然経験しなくてはならない通過儀礼ということで、耐える事はできるかもしれない。

 しかし、大学生ならともかく、わしの学校のように、15歳くらいで、年も若く意志がまだそれほど明確でない者は、目的意識が萎えてくると、寮生活に耐えられなくなり、生活が乱れて性格も荒んで来る。わしの周囲でも目的を失ったものは、暴力をふるったり、公然と煙草をすったり、酒をのんだりするようになった。それが見つかって家庭謹慎3週間。この間、学校の指導は無しで、ほったらかしだ。要するに、全寮を強制しておきながら、ルールを破った時は寮には置いとけないから、家でちゃんと教育しろということなんだろう。帰ってきても、つまらないから同じ事を繰り返す。そして2回目の家庭謹慎3週間、そして3回目で退学だった。

 退学にならなくても、3週間の家庭謹慎が3学期の学年末試験にかかると、全科目0点になるので、赤点が3科目以上となり、落第が確定する。通常落第して下の学年にいくと、もっと荒れて多くがやめていった。高校生の年代はまだ子供だ。試験だけでも受けさせてやればいいのに、こういう状況を自己責任として事務的に処理していった学校に、今も疑問を持っている。これらの学生もこの学校に来ないで、親元から普通の学校に通っていれば、或は全寮でなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。ルールを破ったから親元で教育し直せというのではなく、若いんだから進路変更も含めて、柔軟な指導をすることが教師の責任だった思う。学校を退学になって、親と一緒に寮から出て行く仲間を見るのもつらかったが、本人はもっとつらかっただろう。

 ちなみにわしの二男は高校生のときに、煙草所持で警察に補導され、1週間の停学になった。わしら夫婦も校長に謝罪しに行ったが、停学とはいっても、授業こそ受けられないが、毎日登校して先生とも話して、反省文を書き続けた。学校は卒業まできちんと対応してくれた。わしは今でもこの二男の行った高校には感謝している。