無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10504日

 2日前から喉が痛くなり、夕べからは鼻水鼻づまりに悩まされている。今朝は午前4時から目が覚めて、それから寝られずにずっと起きているので、頭がぼうっとしてきた。こんな日に限って、長男の嫁と孫2人が泊めてほしいというので、家の車庫を空けなくてはならなくなった。500mほど離れた別の駐車場に車を移動して、今帰って来た所だが、熱も出て来たみたいだな。

 人は誰でも、普段は威勢のいい事を言っていても、ちょっと体調が悪くなったり、少し弱ってきたりすると、突然弱気になることがあるが、そこに生死の問題が絡んで来ると、一層顕著になり、思いもかけないような結果になることもある。あと10902日に、肺尖がんと診断された時のおふくろの様子を書いたが、あの気丈でしっかり者のおふくろが、一日で完璧な病人になってしまったのには、みんなが驚いた。

 おふくろにしてみたら、それほど死というものは大きな存在だったし、それは思っていた以上の物だったんだろう。わしもカウントダウンはしているが、明日、余命3ヶ月と宣告されたら、ほんとうに冷静でいられるか、そこまで覚悟があるのか、本当の所はわからない。心の中のどこかで、たぶんまだ先だと思っているんじゃないかと、自分を疑っている。

 わしは女房や子供に、延命治療はするなと伝えてある。生き物として、口から物を食べる事ができなくなったら、その時点で終了だ。だんだん弱っていって衰弱死するのを、ただ待ってもらえればそれでいい。そう伝えてある。しかし、この選択は残された者にとってはつらい選択になる。わしも親父の最期は、親父の意志だと信じて点滴をはずしてもらった。しかし医者から「ほんとうに良いんですか。はずしたら2日もちませんよ。」と言われたときには、わかっていても正直ぐらついたが、わしと女房で、はずしてもらった。今でもあれでよかったと思っている。

 こういうことはやはり普段から話し合っておかないと、なかなか決断できるものではない。兄夫婦は帰ってくることもなく、ほとんど何もしなかったが、口も出さなかった。それはそれでよかったのかも知れないが、葬儀が終わったら翌日に千葉に帰って行ったのにはちょっとびっくりした。何か腑に落ちないことがあったのか、定かではない。

わしも今日は体調が悪いので少し弱気になっているのかもしれんな。 

あと10505日

 わしの中で、4月19日という日は、親父が老人ホームに入所した日で、忘れることができない日になっている。精神的に不安定だから、一旦行くと決めてからも、いろいろ揺れ動いたんだろう。4月19日もひょっとしたら調子が悪かったのかもしれない。ホームに行って、所長と4人で話していた時、わしらを指して、次の様な事を言い出した。「あんたらのために入ってやる。あんたらに言われて、わしはここに死にに来た。今日は4.19で「死にに行く」という丁度いい日だ。」それを聞いて、なるほど死にに行くとは上手い語呂合わせではあるなと、笑ってしまったが、女房は笑ってなかった。

 所長も何と言ったらいいのか、言葉を探していたんだろう。暫く沈黙が続いた。親父も言うだけ言ったらすっきりしたのか、その後は事務的な処理も淡々とすまして、夕方わしらが引き揚げる頃には、普通の状態の親父になって、わしらを見送ってくれた。女房にしてみたら、自分が世話をするのが嫌でホームに預けられた、というような言い方をされたのがショックだったようだ。実の息子でも腹が立つやら、情けないやらでこのクソ親父が、と思ったくらいだから、嫁の立場からすれば、いたたまれない気持ちだったんだろう。

 もちろんわしらも出来る事なら家にいてほしいと思って、デイサービスとショートステイを利用するよう頼んだんだが、どうしても嫌がって行かなかった。家にいても部屋を暗くして籠っているだけだが、飯は3回準備はしなくてはいけない。しかも親父は偏食で、食べ物に文句を言うので、気に入ってもらうのも難しい。女房も働きに行けないので、食費の援助位はしてもらいたいというと、自分の分は実費で払うと言ったり、元気な頃の親父とは全く人が変わったようになってしまった。デイサービスもショートステイも、世話する人が休むために必要だと思うんだが、そこまで考えが回らなくなっていたんだろう。

 最後の帰宅となった平成25年の正月、この時はもう既にかなり体が弱っていたので、これが最後になるだろうということは予測できた。その頃だったと思うが、親父がわしらに「まだ元気なうちに老人ホームに入っとって良かった。」と言ってくれた。これには女房も喜んでいた。9日にホームに帰って19日にすぐに危篤だという事で呼ばれ、その後4月28日に、おふくろと同じターミナルケアの病院で亡くなった。最期を看取ったのはわしと女房2人だったが、息を引き取る直前にわしら2人を見て、にっこり微笑んでくれた。これですべてのことが解消した。

あと10506日

 35年も前の話だが、わしと同じ村出身の新興宗教の教祖がいた。歳はわしより40も上だったはずだ。その人は金集めが苦手だったし、信者も少ないので普通の金満宗教家というイメージではなかった。その教団にはそんなに長い期間通ったわけでもないので、直接話したのは3回か4回くらいのものだったが、その中で何回か利殖の話を聞いた事があった。

 その教祖が言うには、「よく信者から、神様と直接話が出来るんだから、相場の行方なんかわかるじゃないかというような質問を受ける事があるんだが、それはわからない。以前、金が無くて苦しい時にお伺いをたてたことがあるが、少しも当たらず、お金が減って行く一方だったことがあった。そもそも、個人の利益のために、神様から与えられた力を利用しようとする、その考えが間違っているということなんだろう。それ以来自分で積極的な投資はやめた。」

 この話を聞きながら、当時わしは既に株式投資をやっていたので、そりゃ神様が、あがる株を教えてくれて、わしの金儲けの片棒をかついでくれるなら、こんな有り難いことはないが、そんなこと考えた時点で、宗教とは別な世界に飛んで行ってしまって、あと10794日で書いた事の二の舞になってしまう。じゃあどうやって増やすのが良いのか聞いてみたところ、利子ならかまわないと言った。しかも貸付信託に限ると条件付きだった。貸付信託といえば、今の人は想像できないだろうが、半年複利で8%とか9%とかいう信じれられないような利率で利子がついていた時代だ。

 「先生、お言葉ですが、神様に聞かなくても、株は儲かりますよ。」と喉まで出かかったが呑み込んだ。実際、貸付信託が高利率であっても、当時は株のほうが儲かっていた。今から思えば随分ダイナミックな時代だったもんだ。この先生は教団資産は全部貸付信託で運用していたらしい。それだと運用額も大きいから、確実に増えて行ったことだろう。

 結局、話を聞いたり、教えてもらったり、高い本を買わされたりするのに、ずいぶん金がかかる事がネックになり、わしはこの人とは縁を切った。生活も大変だったようだが、この事は、宗教をするにしても、何をするにしても、まずは自分の生活費は自分で稼がなければ、本当の自由は得られないのではないかと、改めて気づかせてくれた。自分の食い扶持は自分で稼ぐ、話はそれからだ、ということかな。

 この教祖は、2〜3年前に新聞のお悔やみ欄で見たから、かなり長生きされたようだ。

あと10507日

 昨日長男夫婦がやって来て、父の日のプレゼントとして図書カードをくれた。たまには家から出て、書店で購入するためにわざわざ図書カードにしたらしい。以前に、どうせくれるんなら、ネットで使えるアマゾンギフトにしてくれと言っておいたんだが、その意見は却下されたようだった。困った事に、女房と子供の間で、わしが家から出ないで引きこもっているので、だんだんボケて来ているんじゃないかということが、共通認識になってきているようだ。

 しかし、家に引きこもっているからボケるという意見に関しては異論がある。長男にも言ったんだが、家に居るからといって、一日ぼうっと過ごしている訳ではない。人との接触が無いだけで、朝起きてから寝るまでやるべきことはいっぱいある。主夫は忙しい。家にいるのが原因でボケるというなら、専業主婦はボケ婦人予備軍かな。それでも1年たつと、何をするにも手早くなり、時間がかからなくなった分空き時間が増えたのは事実だ。中でも一番の時短が夕食の下ごしらえだろう。献立は女房に考えてもらうが、どんなものでも、下ごしらえは昼食後一時間もあればできるようになった。

 あと10874日に書いたように、この生活を始めたのは、勿論出歩くための金が無いのもあるが、『実験漂流記』の如く、鬱で引きこもった親父のあとをたどってみようという試みでもあった。最初は引きこもり生活は去年の11月3日までのつもりだったが、やっているうちに、この生活がわしの性分に合っているんじゃないかと思うようになってきた。しかし、それは単に頭でわかったような気になっていただけだったのかもしれない。あと10587日に夢に関して書いているが、この頃にみていた夢は、やらなければならないことがあるが、どうしてもできないという様な、本当にしんどい夢が多かった。どこかに無理があったのだろう。

 ここ2ヶ月ほどは、そんな夢はみなくなった。これが何を意味するかわからないが、この生活に心身ともに馴染んで来たのは事実だろう。民生委員をやったり、老人見守りをやったりして、社交的だった親父が、おふくろの死後、鬱になり、趣味の写真も庭いじりもやめて引きこもったのは本当に衝撃だった。わしも女房もどうすることもできなかった。わしは仕事に行っていたから普段は家にいなかったが、ずっと一緒にいて世話をしていた女房は、食事がまずいとか、口にあわんとかいろいろ嫌な事を言われたようだった。病気が言わせるとはわかっていてもつらかったようだ。

 紆余曲折はあったが、結局最後は話し合って施設に入ってもらうことになった。盆と正月に家に帰ってきた親父は楽しそうだった。それを見て、わしも女房もいろいろ迷ったり、悩んだりしたが、みんなが無理なく暮らして行くにはこの方法しかないと思う事にした。適当な時にさっさと死んでやるのが親孝行ならぬ子孝行であり、最後の勤めだということがよくわかった。

 この生活の中で、あの時親父はどういう気持ちだったのか、何をしてほしかったのか、何をしたかったのか、その思考過程を疑似体験できたら、それを反面教師としてこれからの生活に活かせるのではないだろうか。

あと10508日

 今日、国保の保険料が決定したという通知が市役所から届いたが、その額がなんと去年の協会けんぽの1/4になっていた。去年の4月以降全く仕事をしてないので、安くなることはわかっていたが、こんなに安くなるとは思わなかった。今の社会、貧乏人は貧乏人なりに、何とか暮らせるシステムになっているようだ。それでも去年は1月から3月までは仕事をしていたが、今年は1月から無職なので、来年度の保険料はもっと安くなるということなんだろうか。楽しみにしておこう。

 金は持っていても荷物にならないので、あるならあったほうがいいと思うが、金は天から降ってくるものではない。金を持つということは、それなりに努力もいるし、持続する強い意志も必要だろう。一時清貧という言葉がはやったことがあった。どうやら、田舎に住んで晴耕雨読の貧乏暮らしをすることだと勘違いした年寄りがいたようだが、清貧生活をすることと、実際に金がある無しは関係ないことだ。つまり、清貧は経済的な貧だけを指すものではないということだろう。

 わしの場合は、清かどうかはわからんが、経済的な貧だけは間違いない。3人の子供の教育費はずっしりと重かった。家庭内資産のほとんどを子供のために使い果たしたともいえるだろう。しかし、そこに徒労感はまったくない。それどころか、逆にこのことは、わしら夫婦の人生に一種の充実感を与えてくれているのも事実だ。その充実感の前では、経済的な貧など何の影響力もない。

 論語にもでてくる位だから、昔から言われていたんだろう。経済的な貧であることは決して自慢できることではないが、卑下することでもない。そもそも、経済的な貧というものは、人の人生の本質とは何の関係も無いと思う。その本質を狂わすものは、経済的な貧ではなく、それが呼び寄せる精神的な貧ではないだろうか。

あと10509日

 1人で家にいると、様々なことが思い浮かんで、放っていくといつのまにか消えて行く。すべて過ぎ去ったどうでもいいことだが、消えたと思っていても、ちょっと油断すると何回でもやって来て、どうだひとつ考えてみろ、はっきりさせといた方がいいだろう.........。などと催促する。麻雀したり、酒飲んだりしていれば、その間はこんなものがやってくることはないんだろう。人が忙しくしたり、快楽を求めたりするということは、こんなことから逃避したいという願望の現れではないかと思うことがある。

 生まれてから65年間、多くの人と出会い、楽しかったり、悲しかったり、たまには軋轢もあったり、喧嘩もしたりして来た。わしが嫌な奴だと思ったら、相手もそう思っていただろうし、わしが不愉快に思ったときは、多分相手もそう思っていただろう。例えば、列に並んで待っている人がいるのに、それに気が付かないで前に並んだとしたら、以前から並んでいた人は当然怒るだろう。しかし、列に気が付かないで先頭に並んだ人の行動は単なる過失にすぎないのに、あまりひどく怒られるとこちらも気分を害すだろう。結局どちらにも怒りの記憶として残るわけだ。

 このような怒りの記憶も、時々蘇って来ることがある。その時、わしは次のように考える事にしている。『世の中は大きな力で満たされていて、すべては連動している。わしはあの時Bに対して怒りを感じた。その怒りは今また蘇ってきたが、今この瞬間、Bも同じように、わしに対する怒りが蘇っているに違いない。もし、わしが怒りをコントロールできれば、Bのわしに対する怒りも収まるに違いない。それが出来た時この件に関する両者の怒りの連鎖は解消される。』

 毎日の感情の浮き沈みは、考え方1つでコントロールできるが、1日1人で家にいると、めまぐるしく変化する感情の流れに辟易することがある。例えるなら、株や、225などに投資していて、その流れを追っているときのようなものだ。露骨に損得がかかったときほど、本音がでるものだ。プラスが増えて行けば世の中バラ色、マイナスが続けば即座に地獄行きだ。このような極端な感情の変化というものは、ほんと嫌になる。

 だからといって、あれはいいが、これはいけないなどと規制しても、人生つまらない。ほんとうは、逃避するも良し、感情の浮き沈みも良し、怒りの感情も良し、解消出来ればなお良し、自分の周りにおこることはすべてOKだと認める事さえできれば、それですべてが解決して楽になるんだろうが、それはいつの事かな。

あと10510日

 このことは、うちの累代の墓建立の経緯を聞くまで、知らなかったんだが、おふくろは一度流産していて、もしその子が元気に生まれていたら、どうやらわしは此の世に存在してなかったらしい。まあそこまではっきりと聞いたわけではないが、これを聞いた時はちょっとショックだったな。そう言われてみたら、物心ついた頃から、棚の上に、木の箱に入った、子供を抱いた弘法大師の小さな像が安置してあって、おふくろはそこに毎朝水をあげていたから、それがそうだったのかと、改めて気が付いた。この像はおばあさんがくれたと話していたから、わしの祖母が、その子の供養のために寺に行ってもらってきたものだろう。

 当時は、親父がまだ田舎の駐在所で警察官をしていた頃で、親父が留守のときはおふくろが代わりをしていたようだ。終戦直後のまだまだ物騒な時代で、松川事件などでよく語られるように、鉄道テロがあったり、さまざまな騒乱事件もあちこちで起こっていた。おふくろも結構忙しかったと話していたから、ほんとうにいろいろあったんだろう。流産したのはそんな頃だった。案外、警察官を辞めたのは、それも理由の1つだったのかもしれんな。警察学校1期生だったから、同期の人等はみんな署長やら幹部に出世しているので、そういう面では惜しかったといえば惜しかったのかな。

 昭和50年に、親父は檀家総代をしていた伯父の斡旋で、今の墓のスペースを貰って累代の墓を建てた。わしはその頃日本にいなかったので知らなかったんだが、両親の気持ちの中では、この墓には、形は無いけど、流産した子が先に入っていたらしい。毎年お彼岸が近くなると、夫婦で掃除やお参りに行っていた。わしが車を買ってからは一緒に行くようになり、その時に何気なく、誰も入ってない墓に線香をあげて拝むこともないだろうということを言ったら、両親がちょっと不機嫌になった。わしも何かおかしいなと思ってその話はやめたんだが、しばらく置いて、実はこういうことがあったんだと、流産した話をしてくれた。できた子供を亡くしたんだから、2人に取っては一生忘れる事のできない痛恨事だったんだろう。

 今は3人が同じ墓に入って、親子で楽しく話しているだろうと想像するだけで、わしも楽しくなる。言ってみれば、わしはその子の代わりに生まれて来た様なもので、あと10510日たって、仲間入りしたときは、その子と初めて対面できるかもしれない。それはそれで楽しみでもある。