無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10466日 座敷わらし

 この家に住んで、25年になる。長女が小学校2年生、長男が幼稚園年中、二男が2歳の時だった。この土地には昭和26年から住んでいるし、その前は田んぼだったから、土地に問題は無いはずだし、新築時には出雲大社地鎮祭、完成後の祈祷もやってもらっている、所謂出雲屋敷なので、家にも問題は無いはずだ。ところが、住み始めて暫くして、夜になると誰かが廊下を歩く音とか、ドアを開ける音が聞こえくることがあったようで、長女が、この家の中に、他の誰かがいるんじゃないかと言い出した。

 じつは、誰にも話してなかったが、この足音というのは、わしも聞いたことがあった。深夜、家族が寝静まった頃、部屋で1人で本を読んでいると、3mほどの長さの廊下を、トントントントントンと歩いて、わしの居る部屋のドアの前まで誰かがやって来て止まった。大人の足音ではない。小さな子供の足音のようだが、ひょっとして、2歳の二男が起きてきたのかなと思って、「S君か?」と声をかけたが返事が無い。おかしいなと思ってドアを開けてみたが、そこには誰もいなかった。

 長女が、誰かが居るという話をした時、おまえが聞いた足音とは、子供のような足音ではなかったのか確認すると、確かにドスドスではなくて、軽くトントンと、ちょうどS君が歩いているような感じだったと言った。別々の時間に、わしら2人が、子供の歩く足音を、何度もはっきりと聞いているんだから、確かに子供が住んでいるんだろう。わし等は、これはひょっとすると、東北地方にでるという座敷童ではないかと考えた。もしそうなら、座敷童が住んでいる家には、幸運が訪れるというから、これは有り難いことだと、大喜びをしたものだった。

 それ以来、いつかは会えるんじゃないかと楽しみでもあり、ちょっと怖くもあったが、とうとう一度も会う事は無かった。最近では足音も聞かなくなった。うちの子供も成長して、みんな家を出てしまったし、遊び相手もいなくなったので、既に、他の子供のいる家に移って行ったのかもしれない。別に悪さをするわけでもなく、25年間、おかげさまでみんな幸せに暮らしている。御礼も言いたいし、じじいでよければ、一緒に遊びもしたいので是非やって来てほしい。その時には、次は3人の子供の家を紹介したいと思っている。

あと10467日

 昭和47年の終わりの頃、丁度ハイセイコーブームで、あちこちに、にわか競馬ファンが誕生していた。わしもその中の1人で、場外馬券場へ行って、せっせと馬券を買っていた。ハイセイコー単勝オッズが1というのがあったから、其の時は全員が買ったんだろうな。誰でも儲けてやろうと思って、馬券を買うんだが、ほとんどが負けているのが現実で、わしも勝った記憶は、たった一度だけで、あとは覚えてないから、負けていたんだろう。

 そのたった一度の勝ちというのが、まさに劇的な勝ちで、競馬なんか、予想も何も関係なく、サイコロを振ってでも勝てるのではないかと、思わしめるような勝ち方だった。昭和47年10月、わしは、練習船北斗丸で航海実習中だった。沖縄に行く前に神戸港に入港して、一日休みがあったので、友人と上陸したが、その時、わしは500円しか持ってなかった。外で飯を食べたらそれで終わりだ。せっかく沖縄に行くのに、遊ぶ金もない、親に送金してもらう時間もないし、どうしようかと、元町あたりを歩いていた時に、ふと眼に入ったのが、場外馬券売り場だった。

 それを見て、これしかないな、と思った。船に居れば、金は無くても飯は食える。いちかばちかやってみるかと、500円を持って乗り込んだ。ちょうど貴船特別が、後1時間程で出走になっていた。単勝一発で決めようと思ったが、やはりどんな馬が走っているか、くらいは知りたい。しかし、ここでスポーツ紙を買えば資金が減る。幸いな事に、わしは視力がよかったので、隣の椅子に座って居る人が見ている、スポーツ紙を盗み見ることにした。

 小さいので判りにくいが、何とか一番人気の『B』の馬番が8のように見えたので、8番を単勝で500円分購入した。いよいよレースが始まった。しかし、実況を聴いていると、わしが買った『B』という名の馬は、馬群にのまれて7位か8位に沈んでしまった。暫くして、がっくりとうつむいたわしの耳に、「単勝8番配当金○○円」という思いもかけない放送が聞こえて来た。えっ、勝ったの?とあわてて掲示板を見ると、たしかに優勝は8番だが、わしの買った8番とは馬の名前が違う。一瞬きつねにつままれたような気がしたな。

 しばらく掲示板を眺めているうちにやっと原因がわかった。なんと馬番と枠番とを見間違えて買っていたようだ。わしが馬番8だと思って買った『B』はじつは枠番が8で、馬番は12だった。そして本当の馬番8の馬が優勝したことで、8で買っていたわしの馬券が当たったということだ。怪我の功名とはいえ、これで数千円儲かり、沖縄で観光バスにも乗ることができた。小さい記事で、遠くから判りにくかったことが、かえって幸いしたということかもしれんが、こんな旨い話は二度と無かったな。

あと10468日

 

tysat1103.hatenablog.jp

 伯父がニューギニアで戦死したことから、わしはニューギニアの戦いについて、図書館へ行ったり、古本屋を回ったりして調べたことがあった。支那大陸でも、ビルマでも、フィリピンでも、ラバウルでも、部隊が部隊として行動し、その記録が戦友会などで作られているんだが、ニューギニアに関しては、それらが非常に少ない。当時からジャワ天国、ビルマ地獄、生きて帰れぬニューギニアと言われていたように、生存者が極めて少ないうえに、多くを語らなかった。それほど過酷な状況だったといえるんだろう。

 そもそも誰が、ニューギニアまで行って、地図も無い人跡未踏のジャングルの中で、補給もなしに戦争ができると考えたのか知らないが、頭が狂っているとしか言えない。昭和19年といえば、既に日本軍はガダルカナルから撤退し、東部ニューギニアのブナをとったマッカーサーは、この戦争の勝利を確信していた。ニューギニア北岸には長大な海岸線が続いていたが、そこには一本の道路も無いし、小さな原住民の集落はあっても、輸送船が着ける港は無い。米軍は大船団でやって来て、海空から襲撃して来るが、移動手段さえ持たない日本軍は、バラバラになってジャングルに逃げ込むだけだった。それは戦争でもなんでもない、屠殺のようなものだ。

 公報では、伯父は、ニューギニア西部の、サルミで戦死となっているが、本当は、わしはそれを信じていない。病気で、内地に送られることが、決まっていたような、弱った体で、ホーランジアからサルミまで、直線距離で約200km、人跡未踏のジャングルの中を、彷徨い、泥水渦巻く大河をいくつも渡って、サルミまでたどり着くことは難しい。様々な本で、語られている状況から考えても、よほどの幸運が無い限り、途中で倒れた可能性が高いと思う。

 14〜5年前になるが、同じ支隊の人が書いた本の中に、伯父ではないかと思える人物が描写されているのに、気が付いたことがあった。病気で顔色が悪いとか、銃器を扱っているとか、書かれてあったので、工兵で銃器が専門だった伯父ではないかと、おふくろに話した。おふくろは、そうかもしれないと言って、その部分を読んではみたが、当時の兄の姿を思い出したんだろう、つらそうだった。著者のMさんは同じ県内に住んでいるから、よければ話を聞きに行こうと思うので、○○伯母さんに聞いてみといてくれるよう、おふくろに頼んでおいた。数日後、○○伯母さんから、「○○ちゃん、気にかけていてくれて有り難う、でもね、もういいんよ。」と連絡があった。

 この話はこれで終わった。伯母さんやおふくろの中では、もう整理がついていたんだろう。何年かして○○伯母さんも亡くなり、その次の年におふくろも亡くなった。

あと10469日

 わしらが小学生の頃は、近所の文房具屋に行くと、幅10cm、長さ40cmくらいの紙の袋に入った、模型飛行機の製作用キットが売られていて、たくさんの子供達が群がっていた。飛行機にはそれぞれ名前がついていて、袋の上に、飛行機が出来上がって飛んでいる絵と、その名前が奇麗なカラーで印刷されていたので、それを見ているだけでも楽しかったのを覚えている。東京号とか、ライトプレーンとか、メーカーも子供が喜びそうな名前をつけだんだろうが、この東京号というのが、よく飛ぶと評判で、当時の一番人気だった。幾らしたのがはっきりは覚えてないが、100円はしてなかったような気がする。あと10836日に書いた、フラフープよりは安かったはずだ。

 袋をあけると、必要な長さの竹ひご、竹ひごを繋ぐためのニュウム管、プロペラ、動力用のゴム、ゴムとプロペラを繋ぐ金属棒、羽に強度を持たせるための薄い板、羽を胴体に固定するための木の台、胴体になる長さ40cm、1cm角くらいの木の棒、それに実寸大の図面が入っていた。初期の頃は、翼先端の曲線部分は、真っすぐな竹ひごを、図面の曲線に合わせてながら、蝋燭の火で熱しながら曲げていたんだが、途中から、あらかじめ曲げられたものが入っているようになった。

 小さな子供にとっては、決して簡単なものではなかったが、当時の子供には大人気で、冬の田んぼや、ちょっとした広場、校庭なんかで、みんなが飛ばしていた。接着剤もセメダインしかなくて、これがなかなか固まらない。待ちきれなくて半乾きで飛ばして、すぐに壊したこともあった。わしの作ったのは、よく飛んだという記憶は無いが、兄貴が作ったのは、なぜかよく飛んだ。兄貴は運動でも工作でも、勉強でも、何でも小器用にこなしていたんだが、如何せんそれ以上努力をしないので、思った程伸びなかったな。まあ、わしも人の事は言えんが。

 そういえば、小学校2年の時、親父が、鳥取出張の土産で買ってくれた、模型飛行機を作って、飛ばした時の事を書いた詩で、校内コンクール特選を貰ったことがあった。ただ、わしの書いた詩は、最後が『飛行機を飛ばした。』で終わっていたのに、担任の三好先生が『2階の屋根まで飛んだ、2階でかあちゃんが見ていた。』という2行を加えてくれた。三好先生は、いつもうちの横を通って通勤していたので、うちが2階だということも、知っていたんだろう。おそらく、その最後の2行が効いたんだろうな。

あと10470日

 昨日の昼過ぎに、ヤクルトおばさんというのか、配達してる人が2人やって来て、ヤクルトの宣伝をして帰った。値段が高いので、間違っても配達を頼む事は無いが、時間はあるので、話だけはゆっくり聞かせてもらった。話も上手で、なかなか面白かったんだが、買う気もないのに、いろいろ質問までしてこられて、向こうも困ったんじゃないかな。年金暮らしの家に来ても、無理だと思うよ、とは言っておいたが、来週もまた来ますと言っていた。ほんとうに来るかどうか、それでも何回も来てもらうと、気の毒で、ひょっとしたら1月くらいとってあげようかと、思うようになるかもしれんな。

 この時、ヤクルトは、昔は瓶に入っていたのを、知っているかと聞くので、60年も前になるが、一時期わしはヤクルトを飲んでいたので、知っていると答えたら、非常に驚いていた。そこでわしが、「じゃあ、あなた等は、ヤクルトにクロレラが入ったのは、いつ頃か知っていますか?」と聞くと「えっ、ク ロ レ ラ?????」という感じで2人で顔を見合わせていた。だからどうだ、ということでもないが、実は、わしはその境目に、ヤクルトを飲んでいたんだな。で、来週から、クロレラ入りヤクルトに変る、というその週で、飲むのを止めた。わしがというより、親が止めようと言ったんだが、理由は簡単で、それによって値段が高くなったからだった。

 ここまで話すと、ヤクルトのプロとして、向こうも対抗して、何か言わなければと思ったんだろう。「ひょっとして、昔の瓶なんかは持ってないですよね?」と聞いて来た。さすがにそれは持ってない。「もしあれば、その瓶が、今幾らするか知っていますか?」う〜ん、ひょっとして、これはヤクルト検定か?......と一瞬身構えたが、これはわからない。幾らするのか聞いて驚いた。マニアの間では、なんと1本10万円で取引されることがあるらしい。それくらい数が少ないということだろう。2〜3本とっておいたらよかったな。

 わしは、小さい頃、体が弱かったので、ヤクルトでも飲んだら、少しは元気になるかもしれんと思ったんだろう、親がわしだけに飲ませてくれた。甘くておいしいので、兄貴も欲しがっていたが、元気な兄貴には回ってこなかった。元気者が損をするということも、たまにはあってもいいだろう。

あと10471日

 ここ2ヶ月ほど、強く噛むと右下の奥歯が痛むようになったので、今朝、近所の歯科医院に行って来た。レントゲンを撮って、結果を見ながらいろいろ説明してくれるんだが、ここのN先生は「う〜ん、虫歯でもないし、歯茎も異常なし、ヒビも入ってないし.............。」という感じで、独り言を言っているのか、患者に話しているのかよくわからんことがある。結局どこも異常がないので、治療しようがない、というのが結論なんだろうが、わしもせっかくやって来たんだから、多少なりとも痛みが軽減する処置をしてほしい。「先生、これは老化ということで、辛抱するするしかないんですかね?」と尋ねると、「う〜ん、そうだ、知覚過敏が押さえられる薬を塗っときましょう。多少は押さえられるかもしれないんで。」ということで、それを塗ってもらって、2120円支払って帰った。

 どこも異常なしと言われて、よかったのか悪かったのか、強く噛んだら痛いのは事実なんだから、虫歯になっているとか、親知らずがあるとか、どこか悪い所があって、これが原因だとわかったほうが、わしにとってはよっぽど有り難い。まあ、どこも悪くないのなら、老化と諦めて、だましだまし、付き合っていくしかないんだろう。

 このN歯科は、うちの長男が幼稚園年中の時に開業したから、もう20年以上になるが、歯科医師やスタッフの人柄が穏やかで、子供にも優しいので、かなりはやっている。このN先生は、このあたりでも有名な旧家の出で、大きな門構えの家は、わしらが子供の頃から知っていた。火事で一部が焼けたあと、その門を壊して、医院を新築したが、最初はその門の一部を改築して開業していた。金儲け主義でもなく、おおらかな、そのおっとりした風貌に、うちの両親も、さすが旧家の出は違うなと感心していた。

 しんどい夢を見ている時は、歯ぎしりをしていることが多いので、マウスピースをつけて寝たほうがいいと、以前N先生に言われて、作ったことがあった。今回の痛みも歯ぎしりが原因かもしれないので、続くようなら必要になるかも、と言われたが、以前、それをつけて寝た時に、気になって寝られないし、途中、何回も目が覚めて寝不足になったことがあった。これは無理だと伝えると、このN先生、歯ぎしりには自己暗示がきくことがあるといって、専門書のその部分をコピーしてくれた。本当に、歯ぎしりと自己暗示の研究をしている人がいるのかと驚いた。さっそく実践してみたが、さっぱり効果はなかった。そりゃちょっと論文を読んだ位で、寝ている時、自分の意識をコントロールする力を獲得できたら、何十年も座ったり、山の中を歩き回ったりして修行している人達は、一体何をやっているんだろう、ということになってしまう。 

あと10472日

 子供は、大きくなったら何になりたいとか、よく言うことがあるが、みんな当然、何かの職業につくことを考えて、あの職業につきたい、この職業につきたいと希望を述べていることになる。しかし、わしらの子供の時代は、多くの母親は専業主婦で、外に職業をもっている人は少なかったので、わしも、女性は当然そうなるものと、漠然と思い込んでいた。小学校4年生のとき、クラス全員で、何になりたいかを述べ合う時間があった。皆それぞれ、学校の先生になりたいとか、医者になりたいとか、勝手な事を言っている中で、Yさんという女の子だけが、自分は大きくなったら、母のような家庭の主婦になりたいと言ったことがあった。

 これを聞いて、なぜか、女子も含めて多くの子供から、ええっと、どよめきが起こった。漠然とであれ、女の子は大きくなったら、母親になり、主婦になると思っていたはずなのに、改めて、主婦になって家族の面倒をみたい、それが私のなりたい職業だと言われると、なんか違和感を感じた。この時のことは、今でもはっきり覚えているが、恐らく子供等にとって、家庭の主婦は、なりたいもの、即ち職業の範疇に入って無かったのではないだろうか。特に希望してなるものではなく、今の生活の延長線上に、当然あるものという意識だったのかもしれない。

 わしは1年4ヶ月、家事を少しやったくらいで、偉そうに『主夫』と名乗っているが、こんなことで『主夫』などと名乗っていると、更に子供の面倒や、親の介護などこなしている本物の『主婦』『主夫』の皆さんに叱られそうだ。若い頃、おふくろはずっと家に居るんだから、社会の事は何もわからんだろう、などと偉そうなことを言って親を泣かしたこともあったが、今から思えば、主婦を完璧にやるために、いかに自分を犠牲にしていたということがよくわかる。

 おふくろは、わしなんかより頭も良かったし、わし等の前で表に出した事はなかったが、弁もたち、理路整然と話をすることができて、村の青年団でも、かなう者が誰もいなかったと、人から聞いた事がある。もう45年も前になるが、従兄弟が、わしの知り合いの青年と、結婚することになったが、相手の家が格式のある家らしく、どこの馬の骨かわからんような家の娘はだめだと言われたことがあった。それを聞いたうちの一族は、とんでもないことをぬかすやつだと怒ったが、さて、誰がそれを談判に行くかということになると、男は誰も手を挙げない。そこで、あの人なら大丈夫だろうと、白羽の矢がたったのが、うちのおふくろだった。

 おふくろは鉄道を乗り継いで、一日かけて相手の家に行って、そこの親と話合いをした。その中身については少々漏れてきたが、なかなか痛快な内容だった。それが終わったあと、格式云々と言っていた相手が、結婚を認めたんだから、完全に説き伏せたんだろう。数年後、その家を尋ねたとき、おふくろと話した当人に会うことができた。開口一番「あなたのお母さんはすごい人だったな。参ったよ。」と言われた。

 わしも、そういうところは、おふくろに似たらよかったんだが、今だに電話が嫌だとか、人前で話すのが嫌だとか言っているんだから、世の中うまくいかないものだ。