無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10449日

 わしが幼稚園児の頃まで、うちの近所に、白い髭をのばした、幕末の慶応生まれのおじいさんが住んでいた。わしらが道端で遊んでいると、お菓子をあげるからついておいでといって、よく家まで呼んで、お菓子を食べさせてくれた。甘い饅頭なんか、家では食べられなかった時代だから、わしらは喜んでついて行ったものだった。また、近所にいた、宮大工のおじいさんの家の横に、松の原木を20本ほど並べて乾燥させていた。当時、そこがわしらの遊び場になっていたんだが、宮大工のおじいさんは、別に出て行けということもなく、それどころか、時々手招きして呼んで、お菓子を配ってくれたこともあった。

 振り返ってみて、思うんだが、昭和20年代、30年代の老人はなんであんなに子供に優しかったんだろう。そして子供等も、ぞろぞろとついて行って、おいしいお菓子をもらって大喜びしていたんだから、おおらかな時代でもあったんだろう。親切を親切として、親も子も素直に受け入れていたんだろうな。翻って今の時代、道端で遊んでいる子供自体が、いなくなってしまったこともあるが、子供に声をかけることが、なんとなく憚られるような気がするのは、わしだけではないだろう。ましてや、お菓子をあげるからうちにおいで、などど声をかけたりしたら、110番通報されてしまいそうだ。

 昔は、学校や幼稚園から帰って、一度遊びに出ると、そこは親の目が届かない、子供等だけの世界だったが、たいていは何人かの集団で、1人になるということは無かったので、比較的安全ではあった。子供の数が多かったんだな。しかし、悪い奴はいつの時代にもいるもので、わしが今でも強烈に覚えているのは、わしが8歳のときにあった、あの「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」だ。この時は、両親も、近所のおばさん達も、この話で持ち切りだった。知らない人について行ってはいけないとか、お菓子をあげるからと言われてもついていってはいけないとか、よく言われたものだ。

 嘘か本当かわからないが、わしらがよく釣りに行っていた、近くのM池で、子供が誘拐されそうになったというような話が駆け巡って、M池に行ってはいかんと言われたのも、この頃のことだった。結局この事件は悲しい結末を迎えて終わったんだが、8歳だったわしでもショックを受けたんだから、親はかなり神経質になっていたことだろう。この事件以後も、子供を巻き込んだ事件は減る事は無かったし、テレビ等で、よりセンセーショナルに報道されるようになったぶん、社会に与える影響は、ますます大き大きくなった。

 わしらの親達の時代から今まで、子供等が安全に過ごせる社会にしたいという親達の願望が、今の社会を作りあげたと、いえるんだろうが、ちょっと行き過ぎた面もある様な気もする。人さらいに攫われて、サーカスに売られるなどという、漠然とした話ではなく、身代金誘拐殺人という、この「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」が当時の父親母親や、わしらみたいな子供に残した不安感、そして親子を、社会にに対して身構えさせたという意味においても、この事件は大きな分岐点になったような気がする。

あと10450日 目的のために金を貯めるということ

 おふくろの甥にあたるSさんは、今年亡くなったJさんの弟なんだが、高校卒業後、決まっていた、地元新聞社を断って陸上自衛隊に入隊したと、おふくろから聞いている。わしはまだ小学校に入った頃で、当時、Sさんがよくうちに来て、親父やおふくろと話をしていたのは知っていたが、話の内容までは知り得なかった。Sさんは「親父も陸軍にいったので、自分も陸上自衛隊にいきたい。」というようなことを言っていたらしい。Sさんは健在なので、聞けばわかるとは思うんだが、人には、それぞれ触れてほしく無い過去や、忘れたいと思っている過去があるかもしれない。大人になってからは、Sさんとはあまり接点が無かったので、昔話もついつい慎重にならざるを得ない。

 Sさんが、旭川第2師団を除隊して帰ってきたのが、わしが普通高校の1年生の頃だと思う。翌年兄がB大学校に行ったときに、Sさんも「夏に帰った時には最敬礼で迎えんといかんな。」とすごく喜んでくれた。この頃に一度だけ、Sさんから自衛隊の話を聞いた事があった。

 Sさんと同期の兵隊に、Sさんよりだいぶ年配の人がいた。営内生活が同じ部屋で、よく話をしていたんだが、しばらく生活するうちに、おかしな事に気が付いた。その人は、一切外出もしないし、PXで物も買わない。タオルとか石鹸とか、生活必需品はおろか、パンツやシャツまで買わなかった。貰えるものは人のお古を貰い、石鹸なんかは、風呂場に落ちているクズを拾って、それを使っていた。

 或るときSさんは不思議に思って、「お前は一体何をしに自衛隊に来たんだ。」と聞いてみたところ、その人は「自分は金を貯めに来た。貯まったら自衛隊を辞めて商売をするつもりだ。」と答えたらしい。......自衛隊にもこんなおかしな奴がいたんだよと、Sさんは笑い話として話してくれたんだが、わしはこの話に、妙に親近感を感じて、笑い話どころか、それはすごい人もいるもんだなと、逆に感心してしまった。

 それから10年位たって、おそらく日刊ゲンダイが創刊された頃だと思う。当時等東京で生活していたので、その日刊ゲンダイを時々買って読んでいたら、面白い記事を見つけた。若い起業家を特集していて、ぶんぶん餃子の入社試験で、山に連れていって樵をやらせた話とか、いろんなエピソードを連載している中で、或る号の記事の中に、ふと旭川という文字を見つけた。とっさにわしはあの、石鹸のクズを拾って使っていたという、Sさんの話を思い出した。その人は、除隊後、見事に起業に成功して、会社社長になっていた。記事を読んでいくと、Sさんの話の通り、旭川第2師団にいた事、給料は全部貯金して金を貯めた事等、自ら語っていたから、その人に間違いないだろう。

 ああ、あの人成功したのかと、何かわしもうれしくなったことを覚えている。同時にわしには無理だと思った。人から変わり者と笑われても、目的のために、金を貯める努力する姿を、うらやましく思った。一方、当時のわしは、金を貯めようと米国船に乗ってはみたものの、人生において「目的=金を貯める」という式はなりたたないことを実感して、7ヶ月で下船した後、何の目的もない、根無し草のような生活をしていた。この記事を読んで、「目的>金を貯める」というのか、金を貯めることに意味があるのではない、使う目的があって初めて、金を貯めることに意味が生じてくるんだという、当たり前のことに、改めて気付かされたことを、懐かしく思い出される。

あと10451日 死ぬということ

 お盆になると、亡くなった人達のことを思い出す。知った人が亡くなるということは辛い事だが、その中でも親の死というのは特別だ。親が死ぬということは、子供にとって、なかなか納得できないことで、特に小さな子供の間は、一番考えたくないことでもあった。小学校の時に、映画で見た『かあちゃんしぐのいやだ』とか『綴り方兄弟』とか、親が先に死ぬ話は、60年近くたった今でも、覚えている位だから、かなりのインパクトがあったんだろう。まあ、これも感じ方や記憶力の違いもあり、一緒に映画を見たはずの兄貴なんかは、全く覚えてないんだから、生きて行く上では、この方が気楽でいいのかもしれんな。

 うちの近くに、民家に囲まれて、墓石が3つ位建っている、小さな墓地がある。小さい頃、その横を通る度に、親が死んだらどうなるんだろうとか、自分も死んだら、親に会えるんだろうかとか、ひょっとしたら、あの世には何段階もあって、自分が死んだ時は、親はもう1つ上の段階にいってしまって、会えないんじゃないだろうかとか、いろいろ考えたことを覚えている。本当に親が死ぬなんてことは、恐ろしいことで、考えてもいけないことだった。

 少し親の存在が薄らいで来たのは、やはり結婚して、自分の子供が出来てからだった。自分の家族の存在は、いつかは親が死ぬという恐怖心を和らげてくれた。自分も人の親になることで、子供と親の関係から、或る面で、親と親の関係になるからなのか、少し客観的に見る事ができるようになったような気がする。その点兄貴は、子供ができなかったので、最後まで子供と親の関係を保ったままだった。特に最初の、おふくろの死は、恐らく、わし以上にショックだったと思う。

 今日のニュースに、「がん患者を持つ家族内の葛藤」に関する調査が行われたといういうのがあったが、おふくろが、肺がん余命3ヶ月と告げられてから始まった、9ヶ月の闘病の間、確かに葛藤があった。考え方の違いや、救えない事への苛立ちが、家族同士の関係をぎすぎすしたものに変えてしまうこともあった。おふくろが女房の肩を抱いて「これからも仲良くしてね。」と言ったのは、死の数日前で、何となく判ったのかも知れない、将に病室内の空気が淀んでいた時だった。

 特に、病人が生きたいと、もがいているのを見ているのはつらいものだ。しかし、一度、生への執念が断ち切れて、死への準備が完了してしまうと、人が変わったようになる。これには驚いた。死の間際にはそれがわかるんだろうが、出来る事ならもっと早く、元気なうちに死への準備を終わらせたい。そうすることが、残された家族への、最後の気遣いにもなるはずだ。

 さて、先ほど迎え火を焚いたから、そろそろ、親父やおふくろの霊が、帰ってきている頃だろう。16日の送り火までゆっくりしていってほしい。

あと10452日

 明日の夕方には、親父やおふくろが迷う事無く帰ってこられるように、迎え火を焚くが、これも今回で12回目になる。今日は長男一家も来るので、団子作りは、今年から長男に頼む事にした。これで1つ、引き継ぎが完了する。こうして、ゆっくりと次の世代へと時間が流れていくんだろう。わしなんかは、もう此の世に生まれて来た役割は、すべて果たしたと自認しているので、有り難いことに、人間だけに認められた老後という時間を、他の人や社会の邪魔をしないように、ひっそりと過ごせたらそれで満足だ。

 引きこもって17ヶ月になり、外見は毎日変化の無い、単調なリズムの中で生きているように見えるが、心の中は決して平坦ではない。多くの人が退職後、暇で時間を持て余している話はよく聞くが、それは自分の中に、常に緊張感を保っていられないからだと思う。他人との接触や、社会との関わりの中に、その緊張感を求め続けてきた人達が、突然それらを取り上げられたら、如何にして緊張感を持ちつづければいいのか、途方にくれてしまうだろう。

 わしは、社会から遮断された生活の中で、緊張感を保つために必要な物は、自分との約束、これを絶対に守るという決意だろうと考えている。自分との約束は、いつでも破る事ができるし、しかも、他の人にも、社会にも何の影響も及ぼさない。しかし、自分を騙し続ける事は困難だ。その結果は全て自分に向かってくることになる。多くの人は、それを繰り返すうちに、沸き上がってくる自己嫌悪感や精神の弛みに堪えられなくなり、再び社会との関わりの中で生きたいと思うようになるのではないかと思う。

 このブログを書く事も、約束の1つになっている。毎日、書く事があろうが無かろうが、読み手がいようがいまいが、とにかく1000字前後の駄文を必ず書き続けて、もうすぐ500日になる。読み手が少ないということは、わしにとっては安心材料で、突然カウンターがどっと増えたりすると、何かまずいことを書いたのかなと、かえって心配になる。しかし日記ではない。更新が途絶えたとき、子供等が、過去現在未来を繋ぐ糸として、このブログを楽しく読み返してほしいと思っている。

 わしは余り人のブログは読まないので、交流することもありませんが、読者に登録していただいているみなさん、時々読みにきていただいているみなさん、毎日読んでいただいているharuさん、何分、過疎ブログですので、この場を借りて御礼申しあげます。ありがとうございました。次は1000回連投を目指しますので、よろしくお願いします。

あと10453日

 朝、9時過ぎに家を出て、墓掃除をするため、寺に向かった。途中の店でお盆用のお菓子を購入して、約30分で到着した。そんなに汚れても無いので、20分くらいで完了し、新しいシキビを立てて寺を出た。いつもなら、途中の中華料理店で、ちょっと早めの昼食として、評判の味噌ラーメンを食べて家に帰るんだが、今日はちょっと違った。女房が、寺から車で15分くらいの所にある、さ○らの湯という、安くて評判のいい温泉施設に、行ってみたいと言い出した。

 この地方には温泉がたくさんあって、温泉好きの人も多いんだが、わしはあまり好きではない。温泉が、というより、風呂がそんなに好きではない。だいいち、昼間から温泉につかってのんびりするという、そういう時間の使い方がわしには理解できなかった。今回もあまり乗り気ではなかったんだが、無下に断るというのも角が立つので、一応、快く了解しておいた。

 昭和48年10月に、船会社に就職が決まり、最初に貰った給料で長野に遊びに行ったことがある。そこで、東京にいた友人のM君に連絡し、2人で黒姫、佐渡、新潟、水上と温泉旅館に泊まって旅行したことがあった。そこそこで、大酒をのみ、最後の水上温泉についた頃には金も少なくなっていた。少し心細かったが、最後だから、ここはひとつ、オネエサンでも呼んでみるかと、フロントに電話をかけてみた。さて、どんなばあさんが来るかと、おっかなびっくりで待っていると、現れたのは、40歳前後の和服の女性だった。

 宴会が始まり、酒が回ってきて、なんか芸でもやってくれと頼んでもなにもしない。所謂芸者ではないんだな。時間が近づいて来ると、昨夜は10万円だした人がいたけど断ったなどと、聞いてもないことをしゃべりだした。わしらには楽しく酒を飲みたいだけで、そんな気は全く無かったので、「ほう、10万円?馬鹿じゃないの」とか、からかっていたら、そのオネエサンも、こいつ等はだめだと思ったんだろう。部屋に干していた、わしらのタオルを見ながら、思いもかけない事を言いいだした。「ああ、あんたら2人、ホモでしょう。」これにはわし等も虚をつかれた。「えっ、わしらがホモ?」2人で顔を見合わせた。

 理由を聞くとこうだ。まずタオルの色が青とピンク、そしてその柄が蝶、この2点でピンときたらしい。いやいや、ピンとこられても困るんだが、このタオルは、最初の温泉旅館で貰った物で、色も、蝶の柄も別にわしらが選んだ訳ではない。本当にそういう法則があるのかどうか、こういう所で長年仕事をしている人のカンと言うのは、馬鹿にできないこともあるんだろうとは思うが、今回は残念ながらハズレだな、ということでお開きになったが、男2人で温泉旅行なんかしていると、そんなふうに見られることもあるんだなと、新しい事実を知って、驚いたこともあった。

  半世紀近く前の、そんなことを思い出して、あのM君も元気にしているかなあ、などと考えながら湯船に浸かっていると、蝉の声や鳥の声が聞こえて来て、いい気分になってきた。露天風呂も泡風呂も気持ちよかったし、案外温泉もいいもんだな。15分200円のマッサージ機で肩や腰をもんでもらって、昼食を食べて、申し込めば無料でトレーニングルームも使えるらしい。全部で1000円もあればOKなので、これから、週一回くらい来て、平日の午前中を過ごすのもいいのかもしれんな。

あと10454日

 いつの間にか、7日の七夕が過ぎていたことに、今日気が付いて、女房に話したら、何か用があったのかと聞かれた。そりゃあ、この歳になると、七夕だからといって、別に用はないが、それでも夜になって天の川を眺めるとか、織姫彦星を思って、昔の良い話を思い出すとか、いろいろあるだろうと言いかけたが、これは黙っといた。この辺りは旧暦でやるので、8月の夏休み中なので、昔は、その日の朝に、おふくろが近所の八百屋で買って来てくれた笹に、朝露で摺った墨で書いた短冊を吊るしていた。夜になると、朝のうちに作っておいたスイカ提灯や、なす提灯を持って、近所を歩き回ったりしたものだ。やはり七夕は旧暦でやるべきだろうな。

 わしは普通高校に一年だけ行って中退後、全寮制の船の学校に入学したので、一年生を2回やったことになる。中退というのは、当時はまだ珍しかったので、親も教師も、まるで人生の落伍者にでもなるかのように反対していた。高校中退は、わしの周囲には、誰も経験者がいないんだから、心配するのはしかたがないが、長い人生、たった1年遅れるだけと考えれば、どうということはないんだがな。ただ、前年に、一年生が寮内の暴力に耐えられず、全員脱柵して、ボートを漕いで家に逃げて帰るという事件があったもんで、その辺りも心配していたようだ。

 男女共学の普通高校が面白かったという人が多いが、わしは面倒くさかった。ちょっとかわいい子がいたらやはり気になるんだが、かと言って気軽に声をかけることもできない。これが出来る奴らが実は羨ましかったが、当時から硬派をきどっていた関係で、そういうことをするわけにもいかない。普通に好きなら好きと言っとけばいいのに、そういうことが割り切れるようになったのはずっと後になってならだったな。それに気が付いた時は、過去を後悔したもんだ。

 男だけの全寮制というのは、硬派には案外馴染みやすいもので、5年もいるうちには、いろいろ問題はあったにしても、入学当時は全く違和感はなかった。この島には県立高校があって、ここの女子生徒と付き合っている奴もたくさんいた。今はそんな事はないが、50年前は、わしらの学校の学生は、女子高生の憧れだった。卒業したらみんな外国航路の船長や機関長になって、高給取りになることはわかっていたからなんだろう。今から思えば、ここで女子高生とつきあっていたら、もっと楽しく学生生活を送れたんだろうが、愚かな事に、空手部の硬派には、今更そんな女々しいことは許されなかった。

 思い返してみれば、わしが硬派をやめたのは30歳くらいだったかな。このころになると、周りにいる女性も結婚適齢期の年代になり、案外もてるようになった。硬派をやめたからもてるようになったのか、もてるようになったので硬派をやめたのか、或は硬派に固執するあまり、昔からもてていたことに気が付かなかったのか、どれかだろう。しかし、つくずく思うんだが、ほんとうは女の子が好きなのに、興味ない振りをして、硬派をきどって30年、素直に生きてきたら、もっと楽しかったのにと、この点だけは心底、後悔している。人間、自分に素直に生きるのが一番だということだ。

あと10455日

 お盆も近づいたので、仏壇の掃除をすることにした。位牌から何から、すべてを取り出して掃除するのは年1回なので、かなり埃がたまっている。いつも何気なく見ているだけで、仏具の配置なんかも、まったく頭に入ってないので、始める前に仏壇全体と、各部分を分けて写真に撮っておいた。再配置時の不安を取り除いておくのも大事な作業だ。手軽に写真が撮れるようになったので、本当に助かる。

 2005年におふくろが死んだ時、あわてて買いに走った仏壇も、今年で13年になり、11月に4日には、13回忌法要を行う予定になっている。月日がたつのは早いもので、位牌や仏具を取り出して、横に置いた座卓の上に並べながら、当時のことがいろいろ思い出された。親父が生きている時は、お盆には兄貴も帰ってきていたので、仏壇の掃除は兄貴がやったこともあったが、死んでからは全く帰らなくなった。親がいなくなったら、やはり帰りにくいのかな。夫婦で帰ると、10万円近くかかるから、経済的な理由もあるんだろう。

 仏壇の奥のほうに置いてある、弘法大師が子供を抱いた、子安大師像も久し振りに取り出した。この像の謂れについては、あと10510日に書いたとおりだ。終戦直後の物が無い時代だから、良い物ではない。わしの祖母が、悲しんでいるわしのおふくろと、死んでしまった孫の為に、峠を越えて何時間もかけて、水子供養で有名なK寺まで行って、もらってきたようだ。かなり汚れていたので、今回初めてティッシュペーパーで、一部をちょっと擦ってみたところ、その部分がピカピカに黒光りするようになった。これはすごいと、弘法大師が持っている杖を取り外して、本格的に全体を擦ったところ、少し灰色がかっていたのが、なんと、真っ黒の子安大師の変貌してしまった。弘法大師もびっくりだろう。

 最後に写真の入った額を掃除した。以前は一人一人の写真を掛けていたんだが、親父が死んで暫くして、2人で一緒に写った写真をA2にプリントした物に取り替えた。その写真は、おふくろが死んだ年の4月に、桜が見たいと言うので、この地方では有名な「う○○み桜」を4人で見に行った時のものだ。満開の「う○○み桜」の下で微笑んでいる2人が今にも話しかけてきそうで、我ながら、これはよく撮れていると感心している。

 この写真をきれいに拭いて、今年の仏壇掃除は終了した。いろいろ思い出しながらやっていると、時間はすぐにたってしまう。来年の今頃も同じ様な記事を書いているんだろうが、その頃はあと10090日ということで、もう4桁寸前だな。