無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10392日

 日曜日と体育の日にかけて長男一家が1泊し、昼間は長女一家も遊びに来たので、孫4人が一日中家の中を走り回り、喧嘩して泣いたり泣かされたり、やかましい事この上ない。しかも、それに対応して犬がずっと吠え続けているので、近所迷惑にもなるし、ほんとわしも疲れ果てた。9日体育の日の夜になって、潮が引くようにみんなが帰っていくと、普通なら宴のあとの寂しさに包まれているんだろうが、わしはやっと取り戻した静寂がうれしかった。その晩は犬の小太郎花子も死んだようになって寝ていた。犬も疲れ果てたんだろう。来てうれしい帰ってうれしいというが、わしは帰った時の方がよりうれしく思うときもある。

 昔、わしの祖父が、わしらが遊んでいるとやかましいと言ってよく怒っていたが、今ではその気持ちがよくわかる。ただ、違うところは、わしは孫らを直接怒ることもないし、静かにさせろと親に言うこともない。祖父のように怒れたらいいと思うこともあるが、そこはやはり可愛くもあるので、難しいところだ。わしの祖父は、ちょっと煙たい存在でもあったので、ああいうじいさんになりたいとは思わない。

 今から思うと、わしと祖父とはほとんど接点がなかった。あれだけいろんなことを記憶しているわしでも、祖父と2人で話をした記憶はほとんどない。いつも怒っているような感じで、取っつきにくい、弱みを見せないじいさんだった。わしが17歳の時に肺がんで亡くなったが、一番記憶に残っているのは、まだ癌とわからずに、風邪をひいたと言って寝ていた時のことだ。16歳の春休みに家に遊びに行って、従妹と兄貴とわしと3人で、家の前を流れる小川の橋の上で話していると、寝ていたはずの祖父が自転車を押して家から出てきた。聞くとこれから薬をもらいに医者に行くと言った。わしはこの時二言三言話をしたが、すごく穏やかな顔をしていたのをよく覚えている。

 それからすぐに肺がんということがわかり、県病院に入院した。その時は癌が大きすぎて手術不可能と言われたが、放射線治療が効いて奇跡的に癌は縮小した。夏休みに兄貴と一緒に見舞いに行った時は元気そうで、わしらの学校の話を楽しそうに聞いていた。次に会った時はすでに脳に転移して意識は無かったから、祖父と話した記憶といえば、この2回だけだ。わしの親父と孫との関係、わしと孫との関係、これらと比較しても、祖父と孫であるわしとの関係は、他人行儀というか、ぎこちない関係だったようにも思う。

 そんなことを考えると、わしに遠慮することなく走り回り、怒ったり泣いたりして騒いでいる孫たちは非常にありがたい存在で、しんどい時もあるが、帰った時の方がよりうれしく思うときもある、などと言わずに、孫たちにとって煙たい存在ではなく、いつまでも楽しく付き合いたいものだ。

あと10393日

 4年前に島であった同窓会に、O君は「現在胃がん闘病中のため欠席します。次回は出席して同じ釜の飯を食ったみんなと会いたい。」という短信を書いてよこしていた。わしは胃がんなら早期発見でよくなることが多いと聞いていたので軽く考えていた。そこで、四国方面に帰るわしら5人で、途中O君の家に見舞いに寄ることにした。橋が架かってからは島まで車で行けるので便利になったが、わしは車で行ったことは無い。この日の同窓会にも学生の頃と同じルートで、JRとフェリーを乗り継いで行っていたので、一緒に見舞いに行くT君の車に同乗させてもらった。

 T君は卒業後、初めから船とは関係ない職種に就いたんだが、わしと違って結構情報通で同窓生の近況もよく知っていた。O君の家を知っていたのもこのT君だった。そしてこの道中で初めて、O君の病状が末期がんで、次の同窓会に出席することはできないだろうということを聞いた。これを聞いてなんか重苦しい気分になった。治る病気なら大変だったなあ、頑張れよで済むが、末期がんの患者に一体何と声をかけたらいいのか、すぐには思いつかなかった。

 O君もわしと同じく高校中退組で、入寮した時一緒の10人部屋だった。身長は低かったが、浅黒くてよく肥えていた。O君とはいろんな思い出があるが、あと10707日で書いた、尾道まで一緒にエロ映画を見に行ったメンバーの1人でもあった。H島で喫茶店をやっていたO君の実家に遊びに行ったこともあった。この時は一緒に行ったM君と3人で、朝まで3人麻雀をやったな。この時O君から聞いたのがホットコーラの話だった。

 ある日O君が店番をしていると、若いアベックが店にやってきて、どこで聞いたのか知らないが、ホットコーラを注文したらしい。ホットコーラという名前を初めて聞いたO君は、客に聞くのも癪に障るので、コーラを鍋で沸かしてだしてみた。炭酸なんか飛んでしまっているから、単なる色のついた砂糖水みたいなもので、おいしいわけ無いんだが、ちゃんと金も払って帰ったから、あれで良かったんだろうなと笑っていた。

 家に着いた時、別人のように痩せてしまったO君が出迎えてくれた。そこにはわしの覚えている、あのふっくらした体格でシャドウボクシングが得意だったO君の面影は全くなかった。奥さんと高校生くらいの娘さんが1人いて、お茶とケーキを出してくれたが、O君の姿を見てみんな急に無口になった。それでも、それぞれの近況を話したり、昔話をしたり1時間位は話しただろうか、O君の負担になってもいけないのでお暇をした。

 帰りはI君の車で最寄りのJRの駅まで送ってもらった。車中でI君が、「Oはあまり長くないのかもしれんな、あれでは次の同窓会までもたんだろう。子供もいるのにかわいそうやな。」わしに話しかけてきた。また次の同窓会で会おうと握手して別れはしたが、みんな心の中では、これが最後の別れになるんだろうなということはよくわかっていた。O君一家は車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。それから1か月もしないうちにO君の訃報を聞いた。

散る桜 残る桜も 散る桜

良寛和尚の辞世の句だが、自分もいずれは散る桜であるにしても、今散ろうとしている桜を見ているのもつらいものだ。

あと10394日

 昔はカメラは貴重品で誰でもが持っている物ではなかった。中学校の修学旅行もカメラを持っていけるのは1グループに1台と決められていて、それでグループの写真を撮ることになっていた。その当時、うちにはヤシカministerというカメラがあったので、それを持って行ってグループの写真係やったことがあった。あと10558日に書いた͡コニレットは12枚しか撮れなかったし、人の写真も撮るとなるとちょっと荷が重かったかな。このヤシカministerは1万円ちょっとしたと思うが、値段の割に結構きれいに撮れて良いカメラだった。

 終戦後市内の写真店の店主が、繁華街にカメラを据えて道行く人を勝手に撮影し、出来上がった写真を本人に売るという商売を始めたらしい。遊園地などで、アトラクションのあと、撮影した写真を本人に売るのと同じ方法だ。そんなに長い期間ではなかったようなので、みんな忘れていたんだが、今から30年ほど前に、その時の店主がそれらの写真をまとめて写真集を出版したことがあった。わしは古い写真には興味があったので、書店に並んだその写真集をペラペラめくっているうちに、何かを考え事をしながら歩いている、若き日の親父らしき人物がはっきり写っているのを発見した。

 早速家に帰って親父に聞いてみると、暫く考えていたが、すぐにその時のことを思い出したようだった。「そうそう、1人で町をあるいている時、突然フラッシュが光って写真を撮られたことがあった。あの時は、これからどうやって生きて行ったらいいのか考えていたんだ。しかし写真は買わなかったはずだ。」こういうので、わしは間違いないと思って、1万円近くしたの写真集を購入して親父にプレゼントした。しかし、不思議なことに親父の遺品の中にあの写真集は見当たらなかったな。

 わしは家族写真やポートレートを見る時、写っている人物もさることながら、バックに写りこんでいる風景にも非常に興味がある。例えば家族写真を撮る時は、当然人物が中心で、その後ろに広がる風景はなんとなく未来永劫続くものだと思って、特に意識することはなかった。しかし何十年かたってその写真を見た時、人物の変化は当然なことでそれほど気にならないが、そのバックの風景の変化には驚かされることがよくある。逆にどんなにきれいに撮られていても、スタジオ写真ではこの感覚は体験できない。古い写真を見ていて、既に記憶の中にしか存在しなかった風景に出会った時は、心が浮き浮きしてくる。

 

あと10395日

 図書館に勤めていた人から、昭和32年から40年代までのサンケイカメラ、アサヒカメラ、カメラ毎日を貰ってから30年たった。家の中で大きなスペースを占有して邪魔なうえに、これらの本はとにかく重たいので、座が抜けるんじゃないかとか、家が傾いているとかさんざん言われて処分を迫られている。処分するにしてもゴミで出すわけにもいかず、かと言って貰うときに図書館の印を押してあるので古本屋に出すのだけはやめてくれと言われていたので、それもできない。さてどうしたらいいものかと、ずっと悩んでいる状態だ。写真の歴史を語る上でも、戦後の広告の歴史を語る上でもこれだけまとめて揃っているのは貴重だと思うんだが。

 たまにはランダムに中を開いてみることもある。この間サンケイカメラの1958年10月特大号を見ていると面白い組み写真が掲載されているのを発見した。「キリンのお輿入れ」というタイトルで愛媛の道後動物園にケニヤからキリンがやってきたときの情景を写したものだった。じつはこのキリンはわしが小学校1年生のときにやってきて、わしも見に行った覚えがある。作者は芳之内重信さんという人で、調べてみると今でも新聞社主催の写真教室の指導者をしていたから、おそらく新聞社のカメラマンだった人だろう。

 途中で電車のガードや電線に引っかかったりして、なかなか大変な道中だったようだ。キャプションに結納金百万円と書いてあるから、当時大卒初任給が1万5千円くらいだから、現在に価値にしたら2千万くらいになるのかな。写真というのは訴求力のある媒体で、文章で長々と説明するよりも一枚の写真で全てがわかることもある。わしもこの組み写真を見ただけで、当時の大騒ぎの様子やキリン舎で見たでっかいキリンの姿が鮮やかによみがえってきた。

 インターネットで紹介すればいいような面白い記事や写真があるんだが、権利関係がどうなっているのかよくわからないのでそういうわけにもいかない。印刷が今ほどよくないので、写真はあまりきれいとはいえないが、あのテレビ結婚式の写真とか、丸の内ビル街や国立競技場の空撮とか、当時の生活風景など貴重な写真が多く掲載されている。これらは時が立つにつれて価値が増してくるものだと思うが、こうして見ていると、やはり写真の価値はその記録性にあり、社会を普通に写したものは今見ても一番面白い。インスタ映えなどと言っている今の写真は半世紀後には何の価値もないガラクタになっているんだろうと思う。

 わしが持っていてもこれを何とかするという気力はもうない。さてどうすべきか、そろそろ結論を出さないといかんな。  

あと10396日

 今日は地方祭で、朝から子供神輿や大人神輿が家の前を通って行った。子供が小さかった頃は、一緒に神輿について回らなければいけないので忙しかったが、今は関係なくなったので楽になった。しかし、来年はここの区に町内会長の順番が回ってくるので、自薦まではしないが、もし頼まれたら断ることはできないだろうな。そうなると祭りも中心になってやらなければならなくなるので忙しくなりそうだ。

 去年の祭りの記事を書いてから一年たってしまった。それを読み返してみると、今から書こうと思っていたことはすでにほとんど書いてあった。ということで、今日少し咽喉も痛いので、あと10762日を紹介しておくことにしよう。

 

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  あと10762日  2016.10.6

 

 今日から地方祭なんで、さっき空の子供神輿がうちの前を通って行った。あした早朝宮出しということになるんだろう。わしの家には該当する子供が居ないので、組長でもやらない限り、祭りにタッチすることはないんだが、それでも家の前を通るとなんかうきうきして来る。この町内も老人ばかりで、わしの組内ではわしが若手なんだから困ったもんだ。

 60年近く前、この辺りにもたくさん子供が居て、祭りの一週間くらい前から空神輿をかいて町内を回っていた。神輿の周りにはいつも30人位はいただろう。わしなんか小さかったので、おまえらは肩が合わんといって、かかせてもらえなかった。近所の竹屋に神輿が置いてあったんだが、夕方晩飯を食って、時間になると竹屋の前は子供でごった返していた。わしは提灯もって後ろからついていくだけだが、兄貴は時々かかせてもらっていた。

 今と違ってどこも真っ暗で、提灯しか灯りがないんだから、他のまちの神輿と出会うときなんか、ほんとに神秘的だった。遠くの方にぼうっと灯りの固まりが見えて、それがだんだん近づいてくるとともに、遠くの方にわっしょいという声が聞こえて来る。今のように笛や太鼓など何も無い、人の声だけだ。すれ違うと、また闇の中に消えて行った。

 しかし、わしもそんなに多く神輿を体験したわけではなかった。というのも小さい頃は小児喘息で、祭りの季節である10月は、ちょうど気候の変わり目となり、発作が出やすい時期だった。それに昔はもっと寒かったような気がする。神輿について回るとあんぱんを2個もらえた。わしが行けなかったときは、兄貴が家に持って帰って、1つをわしに分けてくれたこともあった。あんぱんなんか滅多に食べられなかったから、これは嬉しかった。

 この町の子供神輿はわしが小学校一年のときできたもので、それまでは無かった。隣の町には既に子供神輿があるのに、この町の子供が神輿をかけないのはかわいそうだという意見が出て、町のみんなが寄付をして、今の立派な神輿ができたらしい。10年程前になるが、近所にある「たごり大明神」という小さな祠のお祭りの世話をしたとき、昔、子供神輿を作ったときの、寄付金の額を墨書した板を貼付けてあるのに気が付いた。見ると親父の名前が結構大きな字で前の方に書かれていた。金額は忘れたが、商売人でもないのに多いなと思ったので、家に帰って親父に聞いてみたところ、寄付のことはよく覚えていて、「ほう、そんなんがあったか、あのときは金は無かったが、お前等兄弟も世話になるんで奮発したんだ。」と笑っていたな。

 こうやって思い返してみると、いろんな人に助けられたり、守られたりしながら大きくなったということの有り難さが身にしみてくる。

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あと10397日

 3軒隣にTさんという、おそらく80代半ばではないかと思われる人が住んでいる。わしが子供の頃から住んでいたらしいが、最近まであまりよく知らなかった。同じ町内会ということもあり、親父のあとの民生委員を引き受けてらったりして、両親は普通につきあっていたようだった。Tさんは、子供もみんな県外に出ているので、十数年前に奥さんを亡くして以来、ずっと1人で生活をしていた。

 わしが話をするようになったのは、おふくろが死んだ頃だから、12~3年前になる。特に親父が家にこもってしまってからは気にかけてくれて、飲みに誘ったり、話に来てくれたりしていた。ゴミ出しで出会ったときなんかにも、「おとうさんの具合はどうなん?」と声をかけてくれた。明るい快活な人で、近所の人と話すTさんの大きな声がよく聞こえていた。親父が施設に入ってからも、わしの姿をみかけると、いつも近寄って来て親父のことを聞いてくれた。

 しかし、親父が死んだ頃からだと思うが、しだいに会うことが少なくなってきた。たまに会ってもそんなに話さなくなったので、わしもちょっとおかしいなとは思っていたが、ある日女房が「Tさん随分痩せたし、表情が乏しい、なんかお父さんに似てきたね。」と言った。確かにその通りで、にこやかだった表情が厳しくなり近寄りがたい雰囲気になっていた。

 そんなTさんを、昨晩久し振りに見かけた。車庫の中で明日出すゴミの始末をしていると、誰かが家の前を歩いた。ふとそちらを見ると、Tさんだった。わしも声をかけようかと思ったんだが、うつむき加減で怒ったような表情で歩いているTさんを見ると、声をかけることも憚られるような気がして、黙ってやり過ごしてしまった。

 この状態はおふくろを亡くした後の親父とそっくりで、老人性鬱だと思った。あんなに元気だったTさんも、10年たったらこんなになるのかと、老いるということの厳しさを実感した。老いるということからは誰も逃れることはできない。老いるということは、若者のままで歳だけを重ねることではない。若者の時の体も心も壊れていく過程だともいえる。そうだとすると、完全に壊れてしまう前に、いいところで寿命が尽きるというのも、悪くはないのかなと思う。

 確かにだんだん体もきつくなっていくし、計算も遅くなり、間違いも多くなる、理解力も落ちる、歳をとってあまりいいことはない。これは思っていた以上だ。若い時の体と心の状態のままで、今の生活環境を手に入れることができたら最高だが、それは欲張り過ぎだろう。差し引きゼロのこの人生、ブツブツ言わずに、良いことも悪いことも黙って全部引き受けることこそが、この世に生まれてきた醍醐味だと考えると、少しは楽になるのではないのかな。

あと10398日

 多くの人が経験していることだと思うが、コピー機が普及し始めた頃から、回ってきた文書とか、読んでいる本なんかをやたらコピーするようになった。コピーするときは大事なものだから忘れないようにとっておこうと思うんだが、すぐにどこかにしまって忘れてしまい、後になってそれ見直すことは99%無かった。コピーをとってしまえば安心するんだろう。紙と時間の無駄以外の何物でもない。

 わしは自分の記憶もこれと同じように、一度頭の中で整理してそれをコピー代わりに自分で書き出せば、そのまま忘れてしまうんじゃないかと密かに期待していたんだが、記憶に関してはどうもそうではないということがわかってきた。どうやら「書けば忘れる」ではなく「書けば一層強固になる」ということのようだ。わしは昔の小さな出来事や、その時の自分の心の動きの細かい所まで覚えていることが多い。そのことは若い頃はそうでもなかったが、歳をとるにつれて楽しいというよりもしんどいと感じるようになってきた。

 わしがこのことを意識するようになったのは、晩年鬱になった親父が、昔の楽しかったことは忘れてしまって、嫌だったことや、つらかったことだけを顔をしかめながら話すようになったのを見てからだった。人生楽しいことばかりではないにしても、嫌なことばかりでもない。両者がうまいこと経糸横糸のように織り上げられて人生という一枚の布になっているはずなんだが、歳をとることによってか、或いは鬱が原因なのかわからないが、何時かはその平衡が崩れてコントロールできなくなる時がやってくるかもしれないということだ。

 どこに入っているのか知らないが、頭の中に詰まっている記憶の中では常に自分が主人公で、自分の目で見て自分で考えている。そこには嘘をつかない正直な自分がいて、嫌なら嫌と素直に感じている。実際の場面では愛想笑いのひとつも浮かべて、楽しく会話が弾んだかもしれないが、わしの中には嫌だという記憶も確実に残っている。その後歳をとるにつれて、楽しかった思い出として記憶していたはずのこの時の会話から、作り物の楽しさが消えていって、本当の正直な自分が表に出くるのではないか。

 こんなことならすべて忘れるに限るということで、過去とのしがらみからの決別という意味もこめてブログを書いているつもりが、逆に、より強固に結び付けられているとしたら、これは困ったことだ。親を失えば自分の過去を失うと言われるように、わしの過去なんか覚えていたところで、他に誰も知らないんだから、既に何の意味も無い。親父の遺品の処分は親父に代わってわしが済ませた。しかし自分の頭の中の大掃除は、自分でやらなければ誰もしてくれない。初期状態に戻すというボタンがあればいいんだがな。