無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10185日

 先月26日の夜に家を出て、その晩は久しぶりにフェリーの2等で寝たが、昔とは違って、ガラガラだった。このフェリーは東予港から大阪南港へ行く船で、昔、瀬戸内海の女王と呼ばれた、関西汽船の別府航路の客船とは別のものだ。今の人に話しても、なかなか信じてもらえないが、戦後30年代40年代辺りまで、四国から関西方面に行くのは客船を利用することが多かった。夕方松山を出て、翌朝8時くらいに大阪天保山に着く船で、船内は、たいてい人であふれていた。

 客室に入りきれない人が、甲板に寝たり、或いはボーイさんと呼ばれた部員に金を500円ほど握らせて、食堂のテーブルで簡易ベッドを作ってもらって、そこに寝たりしていたくらいだから、乗船定員は守られてなかったんだろう。この方式も当時は必要悪だったのかもしれないが、批判もされていたようで、客船がフェリーに代わった頃にはなくなっていた。

 そういえば、甲子園に出場する生徒は今ではバスで出かけるが、わしらが子供の頃は、道路事情も悪かったので船を利用していた。松山商業が出るときの写真を覚えているが、浮き桟橋からあふれそうな人々が、五色のテープで見送り、桟橋に面した右舷側だけに乗客が集まったため、1000トンの客船が右に傾いていた。それはすごい熱気だったんだろう。蛍の光、五色のテープ、銅鑼の音は別れの定番だったが、海が汚れるといわれて禁止になったのは何時の頃だったのかな。

 中学2年の時、初めて1人で大阪の叔父叔母の家に遊びに行ったのも、この客船だった。その叔母は既に施設に入り、叔父はかなり弱っている。今度の旅でも一泊させてもらったが、一昨年の10月に泊めてもらった時は、戦争中クラ地峡に行った時の事や、寮に住んで旧制中学に通ったことなんかを、結構長い時間話してくれたが、今回は纏まった会話は出来なかった。わしの名前も時々間違っていたから、誰と話しているのかわからなくなっていたのかもしれない。

 歳をとるとは、こういうことなんだろうが、わかってはいても、目の前でそれを感じるのはつらいものだ。従妹はずっと側で見ているから、変化をそれほど感じてないようだったが、ほぼ1年半ぶりに会ったわしはその変化に驚かされた。しかし、わし自身もこの連休中に子供らと話していて、後ろ姿に老化を感じると言われたから、人から見たらかなりきているのかもしれんな。

 つい先ほど、公民館の人から電話があって、グランドゴルフをやらないかと誘われた。ああいうものは年寄りがやるもんだと思っていたら、いつの間にか自分もその中に入っていたのかと、びっくりした。そうは言っても今年で67だから、周りからみたら、わしがグランドゴルフをやっても何の違和感もないんだろうが、少し考えたふりをした後に、今回はお断りしておいた。

 

あと10196日

 わしは今まで66年生きて来て、この日本という国が嫌いになったことは一度もない。若い頃、日本人が面倒くさいと思ったことはあったが、それとて、風習やしきたりで面倒くさいこともあるなあと思ったくらいで、別に日本人をやめたいと思ったわけではない。確かに若い頃には、外国に移住してみたいという気持ちもあった。それが外国航路の船乗りになりたいと思った原因の一つでもあった。しかし、貨物船やタンカーで14の国を回ってはみたが、逆に外国に対するあこがれはだんだん萎んでいった。

 要するに、日本や日本人の良さが再確認できたということだ。犯罪が少なく、夜道も自由に歩けて、職業選択の自由、行動の自由、思想や言論の自由が、単なるうたい文句ではなく現実に保証されているという国は、世界をみてもそれほど多くはない。これは素晴らしいことだ。それもこれも、国家という骨組みがきちんとしているからこそ、可能となっているので、自由といっても何事にも限度がある。国家の骨組みを揺るがすほどに振れ過ぎた振り子は、また逆の方向に振れるだろう。行き過ぎた自由というのは、近い将来修正されてくるに違いない。その時が、戦後日本人が、自由には責任が伴うということを初めて思い知らされる時かもしれない。

 今日も朝起きると女房は既に仕事に出ていた。おもむろに起き上がり、ソファに寝ている犬の横に座って、また今日も一日が始まる。この生活も今日で755日になった。この生活が、明日も明後日も続くだろうことを疑うことは無い。このように、普段は当然のように明日がきて、また当然のように明後日がくると思っているが、実はこの平穏には、何の根拠もないということに、ふと気づくことがある。

 特に東日本大震災のときは、あたふたするだけで、頼りにならない政府の対応に、治安は本当に大丈夫なのか、生まれて初めて心配になった。そもそも20万人しかいない自衛隊のうち15万人を災害支援に動員すれば、一体誰がこの日本を守るつもりだったのか。旧帝国陸海軍のように予備役、後備役を備えていない自衛隊には後がない。事実、チャイナやロシアの航空機や艦船が不自然な動きをしていたから、この時ほど日米同盟のありがたさを感じたことは無かった。

 「誰がやっても同じだ、それなら一度やらせてみよう」「コンクリートから人へ」「埋蔵金がある」「自民党にお灸をすえる」マスコミが流し続けたプロパガンダだ。あやうく日本という国が沈没するところだった。政治は誰がやっても同じではないし、でっかいお灸をすえられたのは国民だった。これも55年体制日米安保のおかげで、平和や安全に関して無頓着でいられた国民への警鐘になったはずだ。

 以前新聞で読んだことがあるが、インドの国防大臣の部屋には、被爆した広島の写真が飾られている。それを見ることによって、インドは絶対に悲惨な核攻撃を受けないという決意を新たにしていると説明されていた。そして大臣は、地球上で唯一、核攻撃を受けた日本だけが核武装の権利があると話したそうだ。

 キューバ危機は、のど元に核ミサイルを突き付けられたアメリカと、ソ連の争いだったが、地図で見たらわかるように、北朝鮮と東京の距離や、チャイナの核基地があるといわれている場所と東京の距離は、どう見てもキューバとワシントンよりも短い。その時ケネディは核戦争も辞さないと決意したといわれているが、指呼の距離に核ミサイルを配備されても、自ら解決することはできないこの日本は、本当に大丈夫なのか。戦後生まれのわしらの世代は、与えられた平和にただ乗りしているように思えてならない。

 さて、26日の夜からフェリーで伊勢神宮参拝の旅に出ることになった。27日参拝、その晩は、堺の92歳になる叔父の家に泊めてもらう。また、戦争中運河建設の調査で、タイのクラ地峡に行った時の話をきかせてもらえるだろう。28日から5月2日まで二男の家に居て、2日に二男の車で一緒に家に帰る予定になっている。雨は降らないようだから、楽しい旅になるだろう。

 

あと10200日

 セクハラだと言われて財務省事務次官が辞めたが、ほんと情けないおやじだと思う。以前、チャイナから情報を要求されたが、国を売ることはできないと言って、自殺した外務省の役人がいた。この人はいわゆる高官ではなかったが、日本人として矜持を持った立派な人だったと思う。今の日本は、トップはだめでも、こういう人たちがきちんと仕事をすることで、守られているのかもしれない。

 一方、天皇の官吏であった時代の高等文官試験でもあるまいに、公務員試験という、たった1回の単なる試験を受かっただけで、まるで昔の身分制度に先祖がえりをしたような錯覚に陥り、自分たちは無謬であるとうそぶいて出世競争に明け暮れ、挙句の果てにノーパンしゃぶしゃぶや、つまらん女に引っかかったり、貧困調査とか、何とかメールとか、議員なら落選させればいいが、こいつらは立場が保証されているだけ始末が悪い。

 もっと始末が悪いのがマスコミで、今回の次官セクハラもその内容が出てくるにつれて、まるで美人局のような感じがしないでもない。そもそも被害者といわれている女性も、セクハラ被害を受けたといいながら、長期間一緒に食事に行っているし、それもどうやら業務命令の可能性もあるようで、そうなると何が何やらわからなくなってしまう。とどのつまり、どちらも落ちるところまで落ちてしまったということになるのかな。終戦後、WGIPを密かに実行し、精神を骨抜きにしようとした、進駐軍の思惑通りの国になってしまったようだ。

 更には昨日のこと、ニュースをみて驚いた。野党とか呼ばれる集団が、自分たちが提出した法案の審議をボイコットしたらしい。国会とは立法機関のはずだが、本来の業務をさぼってでもやらなければならないことがあるんだろうか。モリでもカケでも、セクハラでも、日報でも、ちょっと気持ち悪いが、喪服も着たパフォーマンスでもやればいいだろう。しかし、それはそれとして、立法機関としての仕事はきちんとやれよといいたい。まあ、自衛官に「国民の敵」と言われるようになったらおしまいかな。

 わしらがいくらおかしいと云ったところで、何も変わりはしない。世の中を変えるためには法律を作ることが必要で、その為には国会議員に働いてもらわなければならない。一般国民はその国会議員を選ぶ権利があるということで、非効率でまだるっこしい制度とはいえ、一応民主主義として根付いてきた。しかし、今の制度を大きく揺るがしているのがメディアだと思う。

 組織されたノイジーマイノリティーが騒ぎ、テレビ新聞等の規模の大きな発信設備を持った少数の者同士が談合して、偏った情報を流し続けると、情報源がテレビ新聞だけの人たちはそれに流されやすい。その結果、選挙によって示された、サイレントマジョリティーの意見は無かったことにされてしまう。これは民主主義の基本である、選挙によって示された国民の意志を愚弄しているように思えてならない。

 緊迫した世界情勢など何処吹く風、安倍辞めろとしか言えないこの人たちも困ったもんだ。ただ数字上はほとんど支持されてないということは、日本人もまだまだ大丈夫ということなのかな。

 

 

 

 

あと10204日

 親父が民生委員をやっていた頃だから、20年以上昔のことになる。その頃は民生委員は町内会長を兼務できなかったので、その代わりにちょくちょく会計担当を引き受けていた。当時は町内会長を、1人の人が長期間やるのが当然という風潮があり、死ぬまで町内会長という人もいたらしい。親父は民生委員という職務上、わしらには軽々しく近所の話をすることは無かったが、町内会長の件については一度だけ話したことがあった。

 わしが、1人の人が引き受けて長期間やってくれたら、みんな助かっているだろうと聞くと、意外な返事が返ってきた。「いやいや、そんなことはない。長いことやっていると、相談もせずに何でも自分勝手に決めてしまうし、誰もそれに意見できない。実はみんな困っているんだ。今の○○さんも、自分で辞めてくれればいいんだが、かと言って辞めろということもできん。交代でやったほうがええのよ。」

 そんなこともあって、結局、親父らの世代の人が、会長任期2年という決まりを作って今に至っているんだが、この制度は非常にうまく機能している。2年の任期が終われば、次の組が担当するので再任はできない。やりたかっても次にやれるのは4年後になる。この制度だと、わしのように自分から手を挙げてまでやりたいとは思わないが、一度くらい皆さんにご恩返しをしておくかなといった様な、消極的希望者にも機会が回ってくる。

 4月以降、公民館関係の集まりにも出るようになり、他の町内会には辞めない町内会長がまだいるということを知った。中には20年近くやっている人もいるようだ。その人の町内にも、おそらくわしのような消極的希望者もいるだろうが、その人たちには、今の会長が死ぬまで、順番が回っくることはないだろう。わしは初めて参加したので、最年長者が会議でも不規則に自由に発言し、強引にすべてを取り仕切ってるようなやり方には違和感を感じたが、メンバーはほぼ固定なので、他の人はそれがあたりまえになっているのかもしれない。

 それでも本人が元気ならまだいいんだが、町内会長でも、公民館関係でも長という役割についていて、会議に病気で出てこられない人が何人もいるのに驚いた。皆さんなかなか辞めないようだ。単なるボランティアの世話役なのに、そんな肩書でもほしいということかな。やはりこういうおかしな慣習は改めて、より良い制度を次世代に残すのも、わしらの年代の役割のような気もしている。

 そこでまず手始めに、町内会長の任期制を他の町内会にも勧めてみようと思っていると女房に話すと、そんな余計なことをすると、生きがいを奪われた年寄りに恨まれるよと言われた。生きがいだけでしがみつかれても困るんだが。

あと10209日

 あまりテレビは見ないし、新聞はとってないので知らなかったんだが、「かけ」に関して、愛媛県職員が首相案件と書いたメモが見つかったとか何とか、「嘘の新聞」が報道したようだ。いつもの、野党議員の来庁希望に、知事がパフォーマンスなら来るなと言ったらしいが、まあよくぞ言ってくれたものだ。ここまで言われたら、実際パフォーマンスなんだから、恥ずかしくて来られないだろう。恥という概念を持っていればの話だが。

 愛媛県の中村知事は、全国の知事の中でもまともな方だろうとは思うが、知事選でも、与野党こぞって推薦させて頂くという感じで、一強体制が長期間続くのもどうなのかな。あと一期くらいで引くのもいいのかもしれんな。最近たまに出てくる加戸前知事は、「かけ」に関しては良いことを言っているが、落下傘で降りてきて知事に当選した時、前の知事を応援した市町村長とは会わないと宣言するなど、小物感丸出しで、さすが三等官庁文科省出身らしいと笑われたこともあった。それでも、過不足のない手堅い知事だったとは思っている。

 さて、4月1日に長男の家の新築祝いをして、久しぶりにみんなで集まることができた。本当は新築ではなく、築50年の古家の改築なんだが、耐震工事を含めた全棟リフォームの威力は凄まじいもので、ほんとうに新築そっくりになっていた。別に住友不動産の宣伝をするわけではないが、それで新築よりも1000万近く安いというのだから驚きだ。

 その家の座敷には、神棚が設置されている。これはわしが特に念をおしたことなので、必要なものは揃えてやらなくてはならない。そこで、今月26日から御祭りするためのお札をもらいに、伊勢神宮までお参りに行くことにした。それを口実にして旅に出たいという気持ちもあるのかもしれないが、2年前の11月に金沢に行って以来だから、間隔があくと少し億劫に感じているのも事実だ。

 以前から、年に一度は伊勢参りをしたいと思ってはいたが、暇があっても金がない年金暮らしでは思うようにはならない。そうこうしているうちに、旅に出たいという気力そのものが失せてくるという負の連鎖に陥ってしまった。まさに今がその状態だ。これではいけないので、今回の伊勢参りが一人旅再開のきっかけになればいいのだが。今年は以前のように、青春18切符の旅にでも出てみるかな。

 

あと10216日

 今の生活も3年目に入り、少し肩の力が抜けてきたように感じている。この2年間、あれをしなければいけないとか、これをしなければいけないとか、とにかく自分に負荷を加えてきた。ところが外部の人と接することが多くなり、忙しくなってくるにつれて、できなければ仕方がないと、素直にあきらめることができるし、そのことがそれほど負担に感じなくなってきた。俳句を再開したことも、そのことによって生まれた、余裕の賜物かもしれない。

 仲春の季語に「水温む」というのがある。山本健吉編「最新俳句歳時記」によると、「寒さがゆるんできて、氷も解け、沼や池などの水が何となく温まってきたのを言う。底にひそんでいた魚も動き始め、水草も生えてくるなど、春の動きが感じられてくるのである。」と説明されている。しかし、これを読んでも、ふーん、そんなもんかなと思うぐらいだろう。山本健吉にしてこれだから、やはり季語は感じるもので、説明するものではないのかもしれない。

 わしが中学に入学したのは昭和39年だったが、自転車通学になるので、親父に自転車を買ってもらったり、詰襟の制服や夏の霜降りのズボンなど珍しいこと尽くめで、急に大人になったような気がして嬉しかったのを覚えている。授業も教科ごとに先生が代わるのが楽しかった。そんな中で、国語の授業初日、使っていたのは光村図書出版の教科書だった。その本の1ページをめくると、そこにはインクのにおいと共に、1枚の写真が印刷されていた。それは「水ぬるむ」というタイトルで、田園の中の、木の橋がかかった幅5mくらいの川岸の土手から、釣り糸を垂れている写真だった。

 当時テレビで放映していた「次郎物語」のタイトルバックに出てきた光景とよく似ていた。こちらの方はドラマの内容も関係していたのか、冷たく寂しい感じがしていたが、「水ぬるむ」という写真は、中学生になったという高揚感も相まってか、本当に春の動きが感じることができた。そしてこの時に、「水ぬるむ」という言葉をその意味ではなく、語感として感じることができたのではないだろうか。本来季語とはそういうものではないかと思っている。

 実はもう一枚掲載されていた写真があって、それは桜と大和三山だった。広い田んぼや畑の広がる中に佇む香具山、畝傍山耳成山をバックに、桜の花を写した、それはきれいな写真だった。一度この景色を見てみたいと思っていたが、それから50年たった平成27年11月にやっと実現することができた。残念ながら桜の季節ではなかったが、蘇我氏の邸宅のあった甘樫丘から大和三山を眺めていると、古代の歴史や、あの写真をみて大和に憧れた中学生の頃を思い出して、時のたつのを忘れてしまった。

  そうは言っても、昭和39年にあの本を使った中学一年生が何人いたか知らないが、見開きにあった、この2枚の写真を覚えている人は、おそらく他には誰もいないだろう。我ながら呆れてしまう。

あと10219日

 以前から言われていたことだが、町内会長になって町内の住民の高齢化を改めて思い知らされている。昔から続いてきたこの町内会の制度も、それほど長くは続かないのかもしれない。住民にとっての一番の負担は分別ごみの管理で、ここの市は、資源ごみだけでも、プラスチック、ペットボトル、水銀、金・ガラス、紙類、埋め立てと6種類に分かれており、更に週3回可燃ごみの日が指定されている。何を可燃ごみで捨てればいいのか?プラと可燃の違いは?分別するたびに様々な疑問がわいてくる。

 町内会の住民ならゴミ出しルールはきちんと守るが、学生やアパートの住民は知ってか知らずか、分別を守らないことが多い。更には、よその町内から持ってくる人もいたりして、収集車が去ったあと、毎回かなりのごみが残されている。ここの市のごみ収集車は、きちんと分別してないゴミは持っていかないので、その処理は町内会が行うことになっている。当番に当たっている組長が、残されたゴミを分別し直して、次の収集日に出すという作業が何十年も行われてきた。

 しかし、考えてみたらこれはおかしな制度で、ゴミの処理は本来市の仕事のはずだ。住民の善意に甘えすぎてはいないか。更に高齢化でそれを担ってきた人達が、だんだん減ってきているという現実は避けて通れない。そこでうちの町内会では、4月から町内の人全員に呼びかけて、組長だけがやるのではなくて、資源ごみのカレンダーに沿って、すべての世帯が日替わりで担当するという方法に変更した。こうすることで、高齢者を免除することが可能となった。

 今、そのための一覧表作成作業がやっと終了して、ほっとしているところだ。3月半ばに町内会長になって、いろんな人達と話しをする機会が増えた。最早引きこもっている暇はない。ほとんどの人は、わしが子供の頃からお世話になった人たちで、今度はそのお返しをする番になったということだ。最近思うんだが、見返りを求めずに、元気で人のお世話ができるということは、本当に幸せなことなのではないのだろうか。人からありがとうと言ってもらえることが、こんなにうれしいことだということを、この歳になって初めて知った。人との関わりというのは、いろんなことを気づかせてくれる。

 わしも元気に動けるのは、あと10年ちょっとだろう。最後のご奉公としてはこれもいいのかもしれない。