無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10116日

 この間の平成30年7月豪雨では、各地でひどい被害がでたが、台風ではなく豪雨によってこれほど広範囲の被害が出たのは、近年稀な出来事ではないかと思っている。今回のは50年に一度の災害らしいが、50年に一度と言えばほぼ一生に一度ということで、被害にあった何人もの人が、こんなことは今までに無かったと話していたのも、さもありなんということだろう。

 あの雲仙普賢岳の大火砕流の時に、消防団や警察が避難を呼びかけているのに、なかなか避難しようとしない人たちがいた。今でも覚えているのが、1人の老人がテレビのカメラの前で「山のことはわしらが一番よう知っとる。」と言い放ったことだ。数百年に一度の災害が今発生しようとしているときに、たかだが数十年の経験で判断しようとする傲慢さには呆れてしまった。まさにそう言っているときに大きな噴火があって、その老人も消防団の人に背負われて命からがら逃げ出したから、人間の無力を思い知ったことだろう。

 ここ50年ほどで、河川には立派な堤防もできて、海岸には防潮堤もできた。これで大きな災害はやってこないと安心して、公共事業を減らしたことにより、当然土木業者も、それに従事する人も土木機械も減ってしまったのではないのかな。以前よりも自衛隊災害派遣が増えているような気がしている。公共事業の土木工事で、年度末になると道路を掘り返していると批判されていた頃は、これはけしからんことだと思っていたが、最近、ああいう工事で金を回して、従事する人や機械を維持しておくことも大切なのではないかと思うようになった。

 自衛隊はすべて自前で完結しているから、いくら活動しても現地で金は動かないが、地元の土木業者がやれば金が動く。そのほうが災害で疲弊した現地の経済に、少しでも貢献するだろうと思うんだが。この災害列島日本に住んでいながら、土木工事を無駄金といって、「コンクリートから人へ」などという戯言で騙された人たちも、少しは考えたほうがいいのではなかろうかな。

 

あと10121日

 南洋第六支隊関連の文書の中に、軍事機密と押印された「第十八軍戦鬪序列」というのがあり、調製年月日は昭和18年4月13日となっていた。原本は恐らく手書きのガリ版刷りだと思われるが、軍隊のやり方がこうだったのか、或いは印刷し直す余裕が無かったのか知らないが、調整日以降の変更は、墨で消した横に新しく書き加えられてあるので、どの部隊が編成を解かれて、代わりにどの部隊が加えられたか、その変遷がわかるようになっている。そして南海支隊を消した横に南洋第六支隊と書き込まれてあった。こんなことは原本を見ないとわからないことだ。

 わしは「第十八軍戦鬪序列」で、昭和18年6月17日編成解除となっている南海支隊という文字を見て驚いた。南海支隊は昭和17年8月21日に、各自20日分の食料を持ってバサブアに上陸した。その年の11月には敗走し、支隊長が行方不明、支隊も解散となり、すでに壊滅状態だったから、当然18年4月には実質的には存在してないはずだが、堂々と「第十八軍戦鬪序列」に書き込まれている。しかもその陣容たるや、すでに消耗しつくしたはずの高知144連隊を主力に、山砲兵、工兵、通信隊、輜重兵、衛生隊、野戦病院、病馬廠、防疫給水部を含んだ、兵員数千人のたいそうなものだった。机上では、これだけの部隊がいまだに存在していたということだろう。

 この幽霊支隊の代わりに編入された南洋第六支隊とは、同じ支隊と名が付いてはいても、指揮官は大佐でおそらく予備役だろうし、松山第22連隊にしても主力は満洲にあって、残っていた留守部隊をかき集めたものだったそうだ。兵員は将校56、下士官174、兵12。現地で遊兵をかき集めて指揮するとか、都合のいいことを予定していたらしいが、机上の空論だということは、みんな知っていたはずだ。

 こう見てみると、「第十八軍戦鬪序列」で南海支隊から南洋第六支隊に変更とは、単なる員数合わせにすぎないということが良く分かる。こんな妙な編成の部隊に来られても、使い道がないことはその道のプロが見ればわかったはずだが、案の定、揚陸作業なんかに駆り出されて、軽くあつかわれていたようだ。こんな勝てるはずもない編成で、南の島に送られることがわかった時、伯父も死を覚悟したのかもしれない。それでも生きて帰れるチャンスはあった。

 病気のため、パラオからの内地行の最終便の飛行機に乗れることになっていたが、それを人に譲り、病身でホーランジアに向かう輸送船に乗るにあたっては、残してきた妻や子供のことが思い出され、様々な葛藤があったと思う。後にその事実を知った伯母は、わしのおふくろに「馬鹿なことを、帰ってくればよかったのに。」と話したそうだ。しかし、松山第22連隊は、昭和20年沖縄で玉砕したから、例えその時生きて帰ってきたとしても、そのまま終戦を迎えることは困難だったかもしれない。

 すべてが運命だといえば、そういうことになるんだろうな。

 

 

あと10125日

 戦死公報によると、わしの母方の伯父は、昭和19年にニューギニアのサルミ付近で戦死したことになっている。18年の暮れ近くに連隊本部を出て、19年にはあっけなく戦死してしまった。去年亡くなった、いとこのJさんの弟のSさんは当時3歳くらいで、松山駅まで見送りに行ったような記憶があると語っていた。そして帰りに駅前で、サーカスか動物園か定かではないが、動物がいる何かを見せてもらったらしい。

 南洋第六支隊については、生存者も少なく、戦後もほとんど話題になることもなかった。子供の頃は、伯父さんは南の島で死んだとしか聞かされてなくて、お盆には伯母さんが一人で、送り火をたいていたのを覚えている。わしが、その島がニューギニアだと知ったのは、おふくろが亡くなる数年前だった。それから資料探しを始めて、南洋第六支隊の存在を知り、生き残った人の書いた、2冊の本を辛うじて見つけることができた。過酷な戦場だったようだ。

 それらの本には、支隊の移動についていろいろ書かれていて、上の方の都合で、将棋の駒のように動かされる軍隊の不条理というものが感じられた。考えてみると、軍隊というのは命令で動くものだから、そのほとんどの命令は電報で送られてきたものであるはずだ。わしは以前、仕事を辞めたら防衛省に通って、そのような戦史の生の資料を見てみたいと考えていたことがあった。しかし現実的には距離的な問題や経済的な問題もあり、実現は不可能だった。

 2日前の深夜、歴史関係のブログを読んでいて、ふと、このネットの時代だから、戦史資料の多くはデジタル化されているのではないのかということに気が付いた。なんで今まで気が付かなかったのか不思議なくらいだ。ちょっと調べてみると、国立公文書館アジア歴史資料センターというところに行きついた。そして南洋第六支隊を「生きて帰れぬニューギニア」に送り込んだ、一通の電報を発見した。

 

大陸指第千八百七號

大陸命第八百九十五號ニ基キ左ノ如ク指示ス

 第八方面軍司令官ハ大陸指第千七百十九號ニ拘ラス南洋第六支隊ヲ成ルへク速ニ

「ホルランヂア」ニ派遣シ地區ノ防備ヲ強化セシムルモノトス

 昭和十九年一月十九日

 

これによってパラオの警備を解かれて、ニューギニアのホーランジアに送られた。

 南洋第六支隊は、途中で華陽丸遭難により、支隊長松尾大佐以下、将校11、下士官27、兵7、計45名戦死とあり、兵器器材等は海没とあるから、すでに支隊としての体は、なしてなかった。兵員も資材も補充があるように書かれてあるが、実際には何も無かった。兵器も無く着の身着のままで、将校56、下士官174、兵12といういびつな構成の上、何の後ろ盾もない集団は所謂遊兵のようなもので、それは心細かったことだろう。

 手間暇かけて、こんな部隊をなぜニューギニアまで送る必要があったのだろうか。おそらく机上の員数合わせのために、あの電報一本で、守る意味もない南の果てまで送られ力尽きた伯父も、15年ほど前に慰霊に訪れた頭髪の薄くなったの3人の息子に会えて、さぞや喜んだことだろう。

 帰国後の報告会で見た、まだ元気だった伯母やおふくろの嬉しそうな顔が今でも思い出される。

 

 

 

 

 

あと10130日

 ワールドカップのポーランド戦には、いろいろ批判もあるようだが、どうなんだろうな。さすがに、ドイツや北東アジアあたりの国から、卑怯だなんだと言われると、お前が言うかと鼻で笑ってしまうが、正直なところ、その時間の長さに、見ていたわしも、ちょっとびっくりした。もちろんゴールを決めて決着をつければ一番理想的ではあるが、攻撃するということは、相手のゴール前に殺到するということだから、当然一気に反撃される可能性もあるわけで、この試合でも既に何回か経験している。失点は許されないんだから、監督も選手も悩んだことだろう。

 中には、負けている日本チームがこういうことをやるのはおかしい、という人もいるようだ。この人たちは、負けているんだから攻めて点を取れと言いたいんだろうが、その人たちは、何のために今試合をしているのか忘れているんだろう。戦っている選手達の今の目標は、グループリーグ突破という一点だ。であるとするならば、あの、セネガルが一点差で負けているという時点で、ルールの上では、日本は目的を達成していたということだ。外野が何と言おうと、あと数分、消耗した体力で、危険を冒してポーランドと戦う意欲が薄れていくのは当然で、誰もこれを責めることはできないだろう。

 わしは、今回の西野監督をみていて、勝利へのグランドデザインも無いのに、戦争へ突っ走って大負けした日本人が、少しは進歩したのかなと感心もした。あの時も、国民を説得する意志があれば、とる道は他にいろいろあったはずだ。シナ大陸や仏印から撤退とか、すべて交渉事なんだから、時間もかかるし、その間に世界情勢も変わってくる。そもそも国際連盟を脱退する必要など無かった。少しばかり非難されたとしても、首をすくめて通り過ぎるのを待つのもいいし、恭順するふりをするのいい。国家や国民を守るという、その大きな目的を達成するためだとすれば、何も卑怯なことではない。しかし当時の日本人はそれができなかった。

 今回のことは、批判する人もたくさんいるだろうが、結果日本チームは決勝トーナメントにすすんだ。戦術的撤退をいかに非難されようとも、西野監督が描いていた、グループリーグ突破のためのグランドデザインはうまく機能したということだ。目的を達成したチームは、終わったことにいつまでもこだわることは無い。それどころか、80年前にそれができなかった祖先がみていたら、よくやったと喝采することだろう。

 主力メンバーを休ませたということは、当然決勝トーナメントを考慮してのことだろうから、勝負はこれからだが、どこも格上で勝つのは困難かもしれない。迫力ある試合を期待している。深夜の放映も、年金生活者は実質24時間フリーだから全く問題ない。万が一ベルギーに勝つようなことがあれば、うるさい外野も、黙って何も言わなくなるだろう。

あと10132日

 今年は6月25日に初めてエアコンを使った。去年は6月18日だったから一週間ほど遅くなっている。他の家庭よりは早いかもしれないが、うちの場合、人間は我慢できても犬が苦しそうになるので、どうしても早く使うようになるのは仕方がない。

 子供の頃に飼っていた、今話題の秋田犬の血が入った「ぺス」は、夏になるとほぼ一日、家の床の下に潜り込んで体を冷やしていたから、今より平均気温は低かったとはいえ、暑いのは苦手だったんだろう。通風口の壊れたところから、体をねじるようにして、器用に潜り込んでいたが、最初見た時は、よくあんな小さい所を通れるもんだと、感心したのを覚えている。

 さて、始まるまで、ほとんど盛り上がらなかった今年のワールドカップも、第一試合での日本チーム大活躍を見て、自分も含めて多くの日本人の掌返しには驚くやら、あきれるやらだが、逆のパターンを見せられるよりはましで、嬉しい誤算とでもいうところだろう。

 そのワールドカップの年に4年に一度中学校の同窓会が行われてきた。40歳の時に始まったから、今年で27年目になるが、わしはここ2回ほどは参加していない。今年もどうしようかと思っていたら、友人のF君から、わしが参加するのかどうか確認の電話があった。F君は一度も参加したことがなくて、出席すれば今年が同窓会デビューになるので、探りをいれてきたんだろう。

 F君とは幼稚園から中学校まで一緒に通った仲で、家も二軒隣りで1歳の時から一緒に遊んでいたという関係だが、大学も勤務先も県外になったので大人になってからは疎遠になっていた。それでも電話で話していると、すぐに昔の子供の頃の関係が蘇ってくるから不思議なものだ。

 F君の両親もすでに亡くなり、こちらには誰も住んでいないので、うちに泊まるように勧めておいた。うちに泊まって一緒に一杯飲めれば、同窓会よりもこちらの方が楽しそうだ。この前にF君の家に泊めてもらって飲んだのが、わしらが30歳の時で、F君がT大学の大学院にいっていた時だから、こちらのほうは実に37年振りになる。

 ちょうど今、3町合同のお宮の夏祭り当番町内会長ということで、初めてお世話をさせてもらっている。近くに生き字引のようなおばあさんがいるので、その人のところでいろいろ教えてもらいながら話を聞いていると、わしの子供の頃の断片的な記憶が、おばあさんの記憶を通して現在につながってくるという、楽しい経験をすることがある。

 あの人のこと、この人のこと、ここ60年の町内の人間模様、それらを楽しく語ってくれるんだから、聞き飽きることはない。女性の情報収集能力侮るべからず!だな。

あと10141日

 昨日は、女房が出かけた後、二度寝をしてしまって、目が覚めたのは10時過ぎだった。昼頃になって、やっと大阪で地震があったことを知り、堺の叔父が気になったが、すぐに電話しても迷惑になるだろうから、夜になって、いとこにsmsで連絡をとってみた。震源が大阪北部だったので、幸いなことに今回は堺市あたりは影響はなかったようだったが、家が古いので耐震基準を満たしてないはずだから、直下型がくれば危ないような気がしている。

 今回の地震が南海地震の前触れのようにいう人もいて、当たれば恐ろしいことになるが、こればかりはわからない。地質年代とかいう途方もなく長い周期からみると、人間の考える時間で図ることがバカバカしくなるのだが、かと言って何の準備もしていないのも不安になるので、うちでも水だけは少しだが確保している。大して役にはたたんと思うが、おまじないみたいなものだ。

 ニュースを見ていると、これだけひどい大阪の地震は観測史上初めてだと、アナウンサー得意げにしゃべっていたが、観測が始まったのが、明治時代らしいから、こと地震に関しては、「観測史上初めて」という仰々しい言葉に、何の感動も覚えないのはわしだけではないだろう。側にいた地震学者が、400年前にはあったと話していたが、400年前でも、80年前でも、地質年代ではほんの一瞬の出来事で、誤差の範囲にもならない。

 そもそも地震学者といったところで、地震予知に関しては白旗をあげてしまったので、わしら素人と何ら変わらない存在になってしまった。予知ができるということにして、一体どれほどの研究費を引っ張ってきたのか知らないが、莫大な額だったことだろう。冷静に考えると、学者が地震を予知したからといって、行政がそれを信じて事前に動けるものなのだろうか。また、一週以内に巨大地震が発生すると言われて、その準備をしていたが、来なかった時に自信を持って解除できるのだろうか。翌日来るかもしれないし、翌々日かもしれない。その責任は誰がとるんだろう。

 南海地震も必ずやってくるんだろうが、それは今この瞬間かもしれないし、来年かもしれない。10年先かもしれない。ひょっとしたら、わしが生きている間には来ないかもしれない。そんな不確定な状況の中では、備蓄するにしても、心構えを持つにしても、結局今できることを、出来る範囲でやっていくことしかできないということだろう。座して待つしかないということかな。平成13年の芸予地震のときは、家の中で動けなかったから、万が一、家が倒壊するようなことになれば、逃げることはできないかもしれない。あとは運だけだな。

 今回の大阪の地震で亡くなった小学生も、地震発生があと1分遅いか、或いは早かったら助かったのかもしれない。家を出るのが1分早いか、遅いかしていたら助かったのかもしれない。生死の境目というのは情け容赦なく誰にでも突然やってくるものだろうが、子供だけは勘弁してやってほしい。

あと10147日

 二年前に、親父の遺品整理をしていて、おふくろが残した昭和20年代からの家計簿と給与明細を発見した。これをいつか整理しようと思っていながら、なかなか手を付けられなかった。やろうと思えば時間はあったはずだが、いまだに段ボールの中に眠っている。とにかく、何から手を付けたらいいのか、全く思いつかない。

 そうはいっても、眺めていても何も始まらないので、先週、データベース化についていろいろ考えてみた。やりようによっては、貴重な昭和の記録になるはずだ。いいものができれば公開することも考えているので、どのような仕様にするかということは大きな問題になってくる。

 ファイルメーカーなら、職場で20年以上使ってきて慣れているとはいえ、ネットで調べてみると価格が5万円近くしているので、これは無理だ。となると無料で使えるmySQLということになる。データベース作成はもともと趣味でやっていて、その延長で、職場の物や時間の管理システムを作っていたから、mySQLも少しは理解できるようになっている。

 初めからインストールされていれば楽なんだが、家のdynabookには何も入ってないので、apachephpmySQLphpMyAdminを順番にインストールしていった。結果、やはりphpでつまずいた。先週一週間いろいろトライしてみたが、いまだにうまくいかない。これは以前にも経験したことがあった。

 10年ほど前に、職場で捨てられていた、古いe-macのHDを交換して、この作業をした時、偶然だったのかどうかしらないが、何の苦労もなく一回で成功した。しかし、退職する前になって、それが古くなったので、今度はwindows7に移し替えようと思って、初めてwindowsでこの作業をやったんだが、結局phpで躓いて時間切れになり、完成できなかった。

 今回もまた同じことを繰り返しているようだ。全く進歩してないどころか、ほとんど忘れかけていて、古いノートなんかを引っ張り出してきて見ている。パソコンをいじっていると、時間がたつのが早いということは、誰もが経験していることだと思うが、一日なんかあっという間に過ぎてしまう。夜になって、この一週間、一体何をしたのかなとふと思うこともあるが、ほんと鬱になりそうだな。

 時間はかかっても、これができないと先へはすすめないので、何としても今週中に済ませて、本来のデータベース作成の段階に進みたいものだ。「家計簿から見る戦後の生活」なんていうタイトルも考えているんだが、さて、どうなることやら。