無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

人生の果実(あと10002日)

11月3日で67歳になり、人生も残すところ27年になってしまいました。27歳の時はどうだったのかと思い返してみると、将来の展望も開けず、こんな状態がこの先ずっと続くのかと、暗澹とした気分だったような気がします。

当時は、生まれてから27年は随分長い時間のように感じていましたが、今、人生長くてあと27年かと考えると、決して長いとは思われません。勝手なものですが、時間の長さは常に変化するということでしょう。

子供の時の時間はゆっくり流れていました。早く大きくなりたい、大きくなったらあれもしたいこれもしたい、こんな勉強は早く終わってほしい、でも時間の流れは遅い、本当にいらいらした覚えがあると思います。  

そして青年期になると流れは一気に加速します。30代40代のことなどほとんど覚えていません。結婚して子供が生まれ、成長してゆく過程もあっという間でした。

「人生というものは、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」

これを知ったのはいつの頃だったのかは覚えていませんが、随分若いころだったような気がします。おそらくその時は適当に聞き流したのでしょう。

その通りなら、67歳になった今の季節は刈り取りの真っ只中ということかもしれません。若いころ考えた人生とはだいぶ違いましたが、それでも、同居して両親を見送り、子供も正しく成長してくれました。

これといって自慢できることも無く、そこそこの人生ではあったとしても、立派な果実を収穫できたと自己満足しています。

昔も今も、夢をおいかける、夢を実現するなどと、若者を追い立てるような言葉があふれていますが、結局は追いかけようがおいかけまいが、実現しようが実現しまいが、いずれにしても、緩急の時の流れを流れていくうちに、本当に大切なものが見えてくるような気がしています。

そして、どのような人生でも真面目に真剣に取り組めは、刈り取りの季節になった時、それぞれ種類は違っても、みんな同じような立派な果実を収穫して、同じような幸せを感じることができるのではないでしょうか。

あせることはありません。

 

善と悪と(あと10005日)

45年も前になりますが、仕事でアメリカのニュージャージー州パースアンボイというところに行った時、夕方変な格好をした子供が家を回っているのを見て驚いたことがあります。

この時、ハロウィンという行事を知りました。

渋谷のようなことはなく、こじんまりしたお祭りでしたが、その夜同僚がタクシー強盗にあいましたから、何か犯罪を誘発する要因があるのでしょうか。

ジキル博士とハイド氏ではありませんが、仮装するということは、人格にゆるみがでるのかもしれません。

そのゆるみから、他の世界が見えてくる、別に仮装しなくても誰にでもそういった小さな経験があると思います。

例えば、一人で瞑想しているときや夢の中には、普段は想像もできないような人格が浮かび上がってきて、困惑することがあります。

自分の人格が善だと思っていても、善の中には必ず悪も存在しており、悪の中にも善は存在しています。すべては相対的なもので、自分の中にはそのすべてが含まれていると感じざるを得ません。

更には、絶対的な善があるとして、それを知りたいと願った時、それを求める過程で絶対的な悪も見なければならないとしたら、それに耐えられない人は、初めから求めてはいけないということではないかと思います。

 

 

幸せな生き方とは(あと10006日)

今のところ、これといって悪いところもないし、家庭不和もないし、住むところもあるし、飢え死にすることもありません。人から幸せか?と聞かれたら、「まあ幸せかな」と答えると思います。

では満足しているか?と聞かれたら、満足はしていませんと答えると思います。

この幸せとは絶対的なものではありません。基準は常に揺れ動いています。大病をした後は、生きているだけで幸せだと感じるでしょうが、少し元気になると、ただ生きているだけでは幸せとは感じなくなります。

この揺れ動く幸せを、なんの疑問も無く求め続けることができる人は、それだけで幸せな人生をおくっていると思います。

もし、満足できる不変の幸せ、絶対的な幸せというものがあるかもしれないということに気が付いたら、揺れ動く幸せは、幸せとは感じなくなるでしょう。

それを強く求めれば求めるほど、幸せからは遠ざかっていくのではないでしょうか。

凡人には、疑問を持たず「まあ幸せかな」と曖昧に言える人生が最高なのかもしれません。

幸せに生きたい(あと10007日)

人は幸せに生きたいと誰しも願います。しかし、人に欲がある限りそれは困難だと思います。

欲は思考や行動の原動力であり、これなくして進歩はありませんが、それは満足することを知りません。常に何かを渇望しています。

渇望の中には、決して幸せは生まれないと思います。 この渇望の連鎖を断ち切らなければ本当の幸せは得られないのではないでしょうか。

でも、人は欲を捨てることなどできません。

結局、自分の中にも、社会の中にも、欲や喜怒哀楽すべてのものが渦巻いているということを認め、自分がどう思おうが、すべては在るようにある、なるようになる、ということを実感することで、初めて幸せへのスタートラインに立てるのではないかと思います。

闇の先にあるもの(あと10008日)

人生一寸先は闇です。その闇はどんどん現実となって姿を現し、過去となっていくのですが、人が歩いた後には過去が山のように残されているはずです。

そして闇からぬけだし、最後の現実となるのが死の瞬間ではないかと思っています。もう先はありません。すべての過去がその瞬間現れて、消え去るのでしょう。

過去は死によって姿を現し、意味をもつものだとすれば、人の誕生は始まりではなく、死ぬことによってそれが意味を持つということなのかもしれません。

父の死の瞬間、一瞬でしたが、とても嬉しそうに眼を輝かせました。過去をすべて認め、納得した最後だったのではないかと思っています。

生きる力(あと10009日)

いつまでも生きたいと願ったところで、長生きしてもたかだか80数年というところでしょう。私の場合は94歳まで生きるかもしれませんが、それとても、願って実現できるものではありません。

普段は忘れていても、死はすぐそこにあることに変わりはありません。それを忘れることによって神経症にならずにすんでいるだけだと思っています。意識した瞬間、死へのカウントダウンが始まり、これを止めるためには大きなパワーが必要になります。

私はそのパワーが生きる力だと考えています。この生きる力が無くなった時、若くても、肉体的に異常がなくても人は死んでしまうのではないでしょうか。

将来への希望、結婚、新しい家庭、子供の未来、大いなる力への畏怖等、私たちに生きる力を与えてくれるものは、常に意識の中に芽生えてきます。これは死を意識するようになった、人類だけに与えられた智慧だと思います。

母は10か月の闘病後、その生きる力が枯れ果てた時、死に対する恐れも薄れ、死を受け入れることができるようになりました。死はその時が来たら、決して恐ろしいものでは無いのかもしれません。

従容として死んでいきたいと願っていても、その時が来なければ難しいということでしょうか。

ふさわしい死に方とは(あと10010日)

ひと月ほど前に、2軒隣のTさんが倒れて救急車で運ばれたことがありました。だいぶ前に奥さんを亡くされて、ずっと一人で生活してきたのですが、だんだん年をとり、それも困難になってきていたようです。

 入院して10日ほどたった日曜日に、町内のSさんから、Tさんのお見舞いにいった時の話を聞かせてもらいました。Sさんによると、話がくどいので少しぼけてはいるようだが、相手の認識もきちんとできるし、それ以外は普通と変わらないということでした。

町内会長として一度はお見舞いに行く必要があるのですが、Tさんが私を誰かわからないのでは意味がありません。Sさんの話は躊躇していた私の背中を押してくれました。

病室には他に誰もいませんでした。Tさんは私を見るなり、「あんたは何しに来た?どこのに人?」と大声で、くってかかるような言い方をしてきました。Sさんの話とだいぶちがうので、私は少したじろいで1~2歩後ずさりしてしまいました。

何十年も同じ町内に住んで、父が「うつ」で引きこもった時にも気にかけてくれた、あのTさんとは思えない変わりように愕然としました。

あれだけ親しかった父の名前を言っても、見舞いにきたSさんの話をしても全く興味を示しませんでした。

何を話しかけても会話にならないので、あきらめてナースステーションで話を聞いてみると、だいぶ痴ほうがすすんでいるようで、お見舞いの品物も置いて行かれては困ると言われました。

Tさんの廊下に響く大声を聞きながら、私は、来なければよかったかなと後悔しつつ、そのまま病院を後にしました。

歳をとれば、いずれはみんなこうなるんだということは、頭でわかってはいても、1対1の場でそれを見せつけられるのはつらいものがあります。

今の状態だと、おそらくTさんは家に帰ってくることはできないでしょう。どこか施設に入るしかないんでしょうが、長生きした先に待っているのがこんな状況だと思うと、寂しくなります。はたして、長生きすることはおめでたいことなのでしょうか。

選べるとしたら、どのような死に方が自分にとってふさわしいのか、いろいろ考えさせられました。