無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

生きること死ぬこと(あと9966日)

なぜ生きるのかと問われたらどう答えるのでしょう。楽しいから生きるのでしょうか。しかし、人生楽しいことばかりではありません。生きているといろいろ辛いことも悲しいこともたくさんあります。

人によっては、死んでしまいたいと考えたことがあるかもしれません。それでも生きているということは、生きることによって何らかの価値を見出したということなのでしょうか。

わたしは生産にも創造にも貢献しない生活を続けていますが、老後というカテゴリーが認められている、人間社会のおかげで生きていけます。既に社会的には無価値ですが、死にたいと思ったことは一度もありません。

それでも時々、こうして毎日生きているのも、単に死がやってこないから生きているだけかもしれないと思うこともあります。

例えば、ちょっとした楽しみを感じて、安らぐこともあったり、新しいことを知って興奮することもあったり、日々の変化の中に美しさ感じたりすることはあったとしても、そんなことにたいした意味は無いように思うこともあります。

そういう枝葉末節の部分を取り除いたあとに、なぜ生きるのかと自問した時、死がそこに無いからとしか答えられません。

では、今死がやってきたら受け入れられるかと言えば、それはできません。

矛盾しているようですが、生と死が裏表であるとしても、自分にとっては生きていることにこそ価値があり、たとえ死によって完成されることがあるとしても、死ぬことには何の価値も感じていません。

価値があるから生きるのではなく、生きることにこそ価値があるということではないでしょうか。

 

 

 

後悔しない生き方(あと9973日)

元気でさえいればそれで満足だと思ってはいても、元気であればなおのこと、それだけでは満足できなくなるものです。

病弱だった子供の頃は、ただ元気であればということを望んでいました。しかし青年期になり、人以上に頑健になると元気でいることは当たり前で、ほかにいろいろ欲もでてきます。

20代の頃、こんな生活をしていると死ぬときに後悔することになるんじゃないかと思うようになり(脅迫観念にとらわれたというほうが正しいのかもしれません)様々な本を読んでいろいろ生き方を模索したこともありました。今でも本棚にたくさんの本が残っていますが、もう読むこともありません。

当時はおそらく精神的な健康を求めていてのだと思います。自分を支えてくれる柱を探していたのかもしれません。これは体の健康と違って、時間がたてば解決できるということではありませんから、一旦始めると終わりがないだろうということはなんとなくわかっていました。これも形を変えた欲望だったんだと思います。

しかしそんなことを考えたところで、社会生活を行う上では邪魔になることはあっても役に立つことは一つもありません。精神的健康などと理屈をつけて小難しいことを並べ立てても、精神的に豊かになることもありませんし、知識の蓄積など何の意味もありません。

還暦も過ぎて、「おてんとうさまに恥ずかしくない生き方」という言葉に改めて気が付きました。子供の頃、祖父母や両親によく言われていた言葉ですが、深く考えたこともありませんでした。しかし、この一言は日本人の英知でもあり、人生のすべてを言い表しているような気がします。どんな経文にも勝る一言であり、もっと早く気が付けばよかったと後悔しています。

誇るものなど何もなく、成し遂げたことなど何もなくても、「おてんとうさまに恥ずかしくない生き方」ができたと思って死ぬことができたら、それだけでいい人生だったといえるのではないでしょうか。

それを判定できるのは自分の良心だけです。

 

 

親の貧乏話(あと9993日)

私の両親は、子供に家計に関する弱みを見せることはしませんでした。厳しいこともあったと思いますが、金銭的苦労は夫婦二人の胸の内に収めておいたのだと思います。大正生まれの人たちはそうなのかもしれません。

 最近父の昭和30年代からの給与明細を整理していて、よくこれで親子4人が食べていけたものだと驚かされました。それくらい給料が少なかった。

私が昭和48年に22歳で外国航路の船乗りになった時、母が、父の月給を超えたと話していたのが事実だったこともわかりました。

しかし、大金を持った22歳の時、親に何かをしてあげようとか、助けてあげようとか、そういう気持ちは全く起きませんでした。今から思えば信じられないことですが、子から親に援助するという気持ちは全くありませんでした。

そもそも親が金銭的苦労をしたことなどほとんど知らずに育ったのですから、それも仕方なかったのかもしれません。

逆に私達夫婦は家計の苦労をオープンにして、更に尾ひれをつけて子供たちにもよく話してきました。

その貧乏話が効きすぎたのか、7年前に、就職した長男が仕送りをしてきた時には、夫婦で腰が抜けるほどびっくりしたものです。

最近の若者はえらいなあと感心するとともに、若い頃の自分の不甲斐なさを情けなく思い出したことでした。

苦労を感じることなく育ててくれたことは、それはそれで有り難かったと思いますが、その一方で、ある程度大きくなったら、たまには貧乏話をして親の苦労を子供にもっと聞かせたほうがいいのかもしれません。

 

 

 

 

 

一休さん(あと9996日)

有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け

これは有名な一休禅師の和歌ですが、現生とはあの世へ行くまでの間、ちょっと一休みしているだけだから、何があろうと大したことはないし、悩むことも無いということなんでしょう。

でも本当でしょうか?

それでは済まないのが人の一生であり、それは苦しみも悲しみも、喜びも全部自分で受け止めて責任を負わなければならないものです。人にとっては今の自分の一生が全てです。それが現実です。本当はみんなわかっているのではないでしょうか。

一休禅師もいつもそう考えていたわけではなく、平家物語を聞いてちょっとそんな感じがしたという程度のことかもしれません。後世の人が勝手に感情移入しただけかもしれません。

生きるのに疲れた人が聞いたら一服の清涼剤にはなるかもしれませんが、それだけのことだと思います。

この和歌を知って感動したのが20代半ばだったと思いますが、今はなんとなく薄っぺらく感じています。

あれから40年生きてきて、雨が降れば雨をよけたり、人に傘をさしかけてあげたり、またその逆もあったり、風が強い時は前に立って人を守ったり、また逆もあったり、無漏路ではなく有漏路を一生懸命生きることこそ一番大事なことだと気が付きました。

高齢者のお話を伺っていつも思うのは、人それぞれ、自分のため、家族のため、家のために一生懸命働いてきたという歴史があり、それは禅僧が一言で語れるようなものではないということです。

一番大切なことは、有漏路だろうが無漏路だろうが理屈ではなく、ただ一生懸命正直に生きて、一生懸命死ぬことではないでしょうか。

一休禅師自身、死にとうないと言いながら、50歳も年下の若い恋人のもとで死んだのですから、本当は一生懸命生きた正直な人だったんでしょう。

 

 

 

庭の梅の木(あと9998日)

うちには、父親が残した猫の額ほどの庭があり、そこには紅梅白梅が植えられています。紅梅はだいぶ弱ってきているようですが、白梅はまだまだ大丈夫みたいです。

切り倒して駐車スペースにしたいという気持ちもありますが、父は死に際まで、梅の木のことを気にかけていたので、怒られそうで切り倒すことはできません。

木には不思議な力があり、それを切った人が死んだという話は、この町でも何件か聞いたことがあります。

この間友人のK君から聞いたのですが、市役所職員だったK君は30年ほど前、市内に県立高校を新設するため、市道拡張用地の買収をしていたそうです。買収事業は無事終了したのですが、誰が植えたのか、旧道わきに植えられた1本の桜の大木だけが残されてしましました。みんな切るのを嫌がったそうです。

K君も気が進まなかったのですが、切らなくては工事が進まないので、作業員に切ってもらいました。それから数日して、その切った人が亡くなられたそうです。

偶然かもしれませんが、それ以来K君は怖くて木を切れなくなったと話していました。

もう一つ、これは昔からの市民はみんな知っているはなしです。

ここは城下町で、大きなお濠があり、その土手に大きな古い榎の大木がありますが、切ろうとした人が何人も人が死んでいるので、誰も切ることができません。

また、うちの近くの古い産土神社の横の、直径3mほどもある榎の大木は、歩道全体を占領して交通を妨げていますが、これも人が死んでいるので、怖くて誰も切ることはできません。自然に倒れるまで手を付けずに置いておくしか方法はないのでしょう。

自然界の中で、人智によって理解できないことはたくさんあります。そしてなかなかそれを認めようとしない人たちもたくさんいます。

その人たちが、実は知らないから安心して笑っているだけで、本当は毎日細いロープの上を綱渡りしているような状態なのかもしれない、ということに気が付いたら、その瞬間から何かにすがらずにはいられなくなることでしょう。

まあ、気が付かないほうがこの世は幸せに過ごせるのかもしれません。死んだあとはしりませんが。

 

人生の持つ意味(あと10000日)

今日であと10000日となりました。明日からは4桁になり、もう二度と5桁にかえることはありません。さて、次に生きて3桁になる日、あと1000日を元気に迎えることができれば、その時は案外死を心待ちにしているかもしれません。

こうして余命を毎日カウントダウンしている人はあまりいないのではないかと思います。夜になり、愛用の3年手帳の今日の欄に、あと10000日と記入することになりますが、今のところ、少しさみしいような感じもしています。

死があるから生きることに意味が生じるとしても、やはりこの世と別れるのは寂しいし、未知の世界に行くことに対する恐れも当然あります。それでも時がくれば行かなくてはなりません。

人生が死によって完成するなら、嫌も応もありませんが、それにしても、死によって浮かび上がり、完結されるこの人生の持つ意味とは、いかなるものなんでしょうか。それは数十年の人生を過ごすことによって得たものなんでしょうか。或いはこの世に生を受けるということによって得たものなんでしょうか。

答えは本には書かれていません。

死によってではなく、生きて人生を完成させることができれば、こんな幸せなことはありません。

 

 

生と死(あと10001日)

今やったことも考えたことも、この瞬間に過去になってゆくということは、理屈ではわかっていても、なかなか捉えることができません。それらは全て消えていくのかというとそうでもなく、ある時に突然現れたりして、困惑させられることもよくあります。

通常毎日5000歩あるいていますが、何も考えずにひたすら歩くことに集中していても、常に過去は自分の中で大騒ぎをしています。半世紀以上前に親と交わしたちょっとした会話や、幼稚園児の時の先生との会話など、とっくの昔に忘れてしまっていたことが突然閃いてくることも度々あります。

大抵のことは、浮かんできても放置していると自然に消えていきますが、このようなとっておきのレアな経験を持ち出してきて、特に注意を引こうとするのかもしれません。

集中しようとしているのも自分なら、邪魔しようとするのも自分であり、どちらも自分が求めているものかもしれません。こうなると自分の意志とはいったい何なのかよくわからなくなります。

意志とは関係なく、過去は消えることなく、すべてが時間の中に残されていくとしたら、今の自分の行い、感情すべてが消えることなく未来の時間につながっていくことにもなるはずです。

そして、1人の人生が終了する時、その瞬間に時間の流れの中に残された、それらすべてを見ることができるのかもしれません。死の直前の一瞬の眼の輝きは、生きてきた証として、それらを経験しているのかもしれません。

「人が1人の人間になるのは、決して生まれることによってではなく死ぬことによってよってである。............1つの人生はそれが生み出す作品によってではなく、死によって完成する。」とはミンコフスキーの言葉です。

死があるからこそ、生きることが意味を持つのではないでしょうか。