無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9911日

 


つい先日のことだが、ラジオから流れるハーモニカの演奏を聞いていて、うちにもハーモニカがあったことを思い出した。40年ほど前に池袋の西武百貨店で購入したTOMBOBAND  C MAJER ARTIST MODE という立派なもので、箱には3500円の値札が付いている

ネットで調べてみると今なら同程度のものが1万円近くしているから、本給9万3000円のサラリーマンにしては思い切った買い物だった。

どうしてそんなものを買ったのかは覚えてないが、小学校の頃ハーモニカには多少自信があったので、ちょっと練習してかくし芸の一つにでもしようと思ったのかもしれない。

あまり難しい曲は無理なので、日本の詩歌という本を購入してそこにでている文部省唱歌やフォスターの曲なんかを吹いて楽しんでいたが、やっぱりだんだん飽きてきた。

本来ならそこから新しい曲に挑戦して、更にうまくなっていくんだろうが、この飽きっぽい性格はどうしようもない。そうこうしているうちにドの音が狂ってきた。修理にだすことも考えたが、そこまでの意欲もなく結局やめてしまった。

段ボールの底から探し出してきたそのハーモニカを眺めながら、あれから40年間ずっと練習を続けていたら、今頃はたいしたものになっていたことだろうと、都合のよい想像を膨らませてみたが、残念ながら40年の月日は帰ってこない。

小学校でハーモニカを習ったのは2年生の時で、みんなで「春の小川」や「お馬の親子」を吹いたのを覚えているが、3年生になると縦笛のスぺリオパイプというやつに代わってしまって、それ以来学校でハーモニカを吹くことはなくなった。

 それにしても、なんでハーモニカはたった1年で小学生の音楽教育の現場から消えてしまったんだろう。

 直接くわえて吹くものだから、衛生上使いまわしができないことや、目に見える形での指導ができないということもあったのかもしれない。

 縦笛なら指の位置を教えることは簡単だが、子供にハーモニカで吹いたり吸ったりする場所を教えるのは、むずかしいかもしれない。

ハーモニカはそれほど金もかからず、比較的簡単に演奏できるので、再開してみるかな。

 

あと9921日

 年金生活というのは何の制約もないので、気楽と言えば気楽だが経済的にはカツカツだ。少しでも世間一般的な娯楽を求めるなら、その分、他の部分の蛇口を絞るしかない。幸いなことに、そういった娯楽にはあまり興味がないので、それほど無理することなく何とかやっていけている。

 新しいことはネットで見ることができるので、本を買うこともない。また、本が読みたければ、今までため込んだ本がたくさんあるので、それらをもう一度読み返している。何十年も前に読んだ本なんかも改めて読み返してみると、若い頃とはまた違った見方ができて面白い。しかもこれだと金はかからない。

 若い頃から大東亜戦争関連の本もたくさん読んだが、戦争の事実を知りたいという欲求が満たされることはなかった。今になってそれらの本を読みなおしてその理由が少しだけわかったような気がしている。

 自分にとって知りたかった戦争の事実とは戦場の実相だったのか、戦争を経た日本人としての生き方の問題だったのかということを深く考えることをせず、戦場の記録を読むことに終始していた。

 戦争と言えば勝敗は時の運、勝つときもあれば負ける時もある。昨日の敵は今日の友だという思いは多くの日本人が共感するだろう。戦記を読んでも、残念だ、軍隊は理不尽だという思いはあっても、今更アメリカ人やイギリス人を憎むという気持ちにはならず、またそれが当たり前だと思っていた。世界にはこの考えが通用しない人たちがいるということに気が付かなかった。

 戦後半世紀もたった頃から、戦史も出尽くした感があり、歴史としての戦争は次第に遠ざかっていった。同じように感じていてた人も多かったのではないだろうか。その虚をつかれたといえるのかもしれない。昭和20年代生まれの責任でもある。

 事実かどうかということは関係なく、優位に立つための道具として歴史を利用されてしまったようだ。

 これをただすのにまた50年かかるのかもしれないが、一歩も引くわけにはいかない。

 昭和20年8月15日に、武器を使った太平洋戦争は終わったが、大東亜戦争はまだ終わってない。今も一日一日新しい戦史が書き加えられているといえるのかもしれない。

 

 

 

あと9932日

 誰でも幸せになりたいと一所懸命に生きているはずだが、幸せになれる人もいればそうでない人もいる。幸せとは何かということは、置かれた状況や考え方で、人それぞれ違うと思うが、それらをすべて受け入れるということで精神の平衡を保っているといえるのかもしれない。

 これは来島海峡大橋が開通した頃のことだから、もうかれこれ20年近く前の話だ。その頃、夕方仕事の帰りにはいつも近所のMさんの家の前を通っていた。

 ある日の夕方、何気なく通り過ぎていたMさんの家の前に、半袖のワンピースを着た小柄なおばあさんが、犬を連れて寂しそうに立っているのに気が付いた。

 その日から毎日、来る日も来る日も何をするでもなく、ただ立っているおばあさんの姿があった。不思議に思って、当時健在だった母に聞いてみると、その人はMさんの奥さんだった。

 母は「あそこも大変なんよ。」と言ったが詳しい話はしなかったし、それ以上こちらからも尋ねなかった。家庭内でいろいろあったようだ。

 それから10日ほどたった頃、突然おばあさんの姿が見えなくなった。犬だけがぽつんと駐車場の片隅に佇んでいた。その日以来Mさんの奥さんは、長男である自身の連れ子と一緒に、杳として行方がわからなくなった。

 それからどのくらいたったのか忘れたが、母からMさんの奥さんの遺体が発見されたという話を聞かされた。長男と二人で死のうと、車で来島海峡大橋へ向かったMさんの奥さんは、どうしても死にきれなかった長男を残して一人で飛び降りたらしい。

 橋まで一時間半ほどの間、二人でどのような会話がなされたのだろう。長男の小さい頃の楽しかった思い出話しをしたんだろうか。そして二人で笑いあったんだろうか。最後にどのような別れをしたんだろう。

 既にMさんも亡くなり、家は人手に渡っているが、その家の前を通るたびに寂しそうに立っていたおばあさんの姿が思い出される。

 死は現実からの逃避だとは思わない。現実への絶望だけでも死ねないと思う。死へ突き動かすのは絶望の先にある希望なのかもしれない。

 

 

 

 

 

あと9937日

 定年退職を区切りにして、年賀状をやめようと思ったことがあった。職場関係で何年も付き合いのない人は簡単にやめることができたが、親戚友人なんかはそうもいかず、今でも続いている。年に一回のことだから、ことさらやめることも無いのかもしれない。

 それほど枚数も多くないし時間も十分あるので、せめてあて名くらいは手書きにしようかと考えたこともあったが、結局両面とも、ブラザーの白黒レーザープリンターにお世話になっている。一度楽を覚えると逆戻りはできないようだ。

 年に一度、年賀状だけのお付き合いという人もたくさんいるが、その中の一人であるHさんの年賀状には驚かされた。Hさんは、28から32まで東京で仕事をしていた時の先輩で、随分お世話になった。たしか14~5歳年上だったから、80歳は過ぎているはずだ。

 毎年、青インクの万年筆で書かれた、右肩上がりの流れるような書体が印象的だったが、今年はところどころ震えるように歪んだ、子供が一生懸命書いたような文字が並んでいた。どうやら体が不自由なようだ。

 それを見たとき、ゴルフが好きで、毎週のように出かけていた40代のHさんの顔が懐かしく浮かんできた。職場でもゴルフの話と酒の話しか覚えてないが、あのHさんがリハビリも兼ねてだろうか、一文字一文字一所懸命に書いたのかもしれないと思うと、なんか有り難いものを受け取ったような感じがした。

 健康には気を使う人で、毎年人間ドックに入って検査をしていたから、退職後も続けていたことだろう。運命といってしまえばそういうことなんだろうが、これは決して他人ごとではない。

 自分のことが自分でできなくなると、人生の面白みも半減するのではないだろうか。いくら気を付けていても病はやってくるが、それでも行動の自由を無くすことなく、元気に寿命を迎えて、楽しく死にたいものだ。

あと9945日

明けましておめでとうございます

本年もよろしくお願いします

 

午前9時過ぎに国旗日の丸を掲揚して今年も始まった。朝日を浴びて翻っている日の丸は本当に美しい。

昨夜は二男と一緒に、久しぶりにテレビで格闘技を見た。いくら好きなことで金になるとはいえ、大晦日にこんなに痛いことをしなくてもいいのに。

それにしても、最後にちょっとでた、あの金髪の少年は何がしたかったのかよくわからない。解説と称してばか騒ぎしていた人たちが煽りにあおった挙句、試合後の手のひら返しもひどかった。

ほとんどテレビを見ない私でも名前は覚えたから、知名度を上げるという点では少しは効果があったのかもしれない。

さて、「無駄に生きるとはどういうことか」と名付けたこのブログも、はじめてから2年と8か月がたった。

この世に生きて、家族や周囲のいろんな人たちと交わり、失敗したり、考えさせられたり、心配したりしながら何となく過ごしているが、その時間も一日一日と減って、あと9945日となった。

しかし、減っていることを意識するということはつらいことだが、決して悪いことばかりではない。

その一日一日を常に意識しながら真剣に生きることは、その手の本に書かれてあるほど簡単なことではないし、漫然とそれらしきことを考えたり、それらしきことを読んだり、それらしきことを人にしゃべったりしたところで、本当の死に対面した時、役に立つとは思えない。

そんなことよりも、毎日一回でも生きられる時間が減っているということを意識することができれば、小さな一歩でも前に進めるのではないかと考えている。

従容として死を迎えることができるということは、カウントダウンもまた楽しいということなのかもしれない。

 

生きること死ぬこと(あと9966日)

なぜ生きるのかと問われたらどう答えるのでしょう。楽しいから生きるのでしょうか。しかし、人生楽しいことばかりではありません。生きているといろいろ辛いことも悲しいこともたくさんあります。

人によっては、死んでしまいたいと考えたことがあるかもしれません。それでも生きているということは、生きることによって何らかの価値を見出したということなのでしょうか。

わたしは生産にも創造にも貢献しない生活を続けていますが、老後というカテゴリーが認められている、人間社会のおかげで生きていけます。既に社会的には無価値ですが、死にたいと思ったことは一度もありません。

それでも時々、こうして毎日生きているのも、単に死がやってこないから生きているだけかもしれないと思うこともあります。

例えば、ちょっとした楽しみを感じて、安らぐこともあったり、新しいことを知って興奮することもあったり、日々の変化の中に美しさ感じたりすることはあったとしても、そんなことにたいした意味は無いように思うこともあります。

そういう枝葉末節の部分を取り除いたあとに、なぜ生きるのかと自問した時、死がそこに無いからとしか答えられません。

では、今死がやってきたら受け入れられるかと言えば、それはできません。

矛盾しているようですが、生と死が裏表であるとしても、自分にとっては生きていることにこそ価値があり、たとえ死によって完成されることがあるとしても、死ぬことには何の価値も感じていません。

価値があるから生きるのではなく、生きることにこそ価値があるということではないでしょうか。

 

 

 

後悔しない生き方(あと9973日)

元気でさえいればそれで満足だと思ってはいても、元気であればなおのこと、それだけでは満足できなくなるものです。

病弱だった子供の頃は、ただ元気であればということを望んでいました。しかし青年期になり、人以上に頑健になると元気でいることは当たり前で、ほかにいろいろ欲もでてきます。

20代の頃、こんな生活をしていると死ぬときに後悔することになるんじゃないかと思うようになり(脅迫観念にとらわれたというほうが正しいのかもしれません)様々な本を読んでいろいろ生き方を模索したこともありました。今でも本棚にたくさんの本が残っていますが、もう読むこともありません。

当時はおそらく精神的な健康を求めていてのだと思います。自分を支えてくれる柱を探していたのかもしれません。これは体の健康と違って、時間がたてば解決できるということではありませんから、一旦始めると終わりがないだろうということはなんとなくわかっていました。これも形を変えた欲望だったんだと思います。

しかしそんなことを考えたところで、社会生活を行う上では邪魔になることはあっても役に立つことは一つもありません。精神的健康などと理屈をつけて小難しいことを並べ立てても、精神的に豊かになることもありませんし、知識の蓄積など何の意味もありません。

還暦も過ぎて、「おてんとうさまに恥ずかしくない生き方」という言葉に改めて気が付きました。子供の頃、祖父母や両親によく言われていた言葉ですが、深く考えたこともありませんでした。しかし、この一言は日本人の英知でもあり、人生のすべてを言い表しているような気がします。どんな経文にも勝る一言であり、もっと早く気が付けばよかったと後悔しています。

誇るものなど何もなく、成し遂げたことなど何もなくても、「おてんとうさまに恥ずかしくない生き方」ができたと思って死ぬことができたら、それだけでいい人生だったといえるのではないでしょうか。

それを判定できるのは自分の良心だけです。