無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9296日 1230クダコ水道通過

「あと9355日 過疎の島」で、女房の叔父が、目の前のクダコ水道を通る戦艦大和を見たことがあると話してくれたことを書いた。そのブログを書いてから、本当に連合艦隊が柱島への入出港時にクダコ水道を通ったのか少し気になっていた。

そこで先日、20年ほど前に購入した、原書房版宇垣纒の戦藻録を引っ張り出してきてどこかに記録がないかと探してみた。恥ずかしながら、この本はミッドウェー作戦の図上演習に関する部分しか読んでなかったので、新品同様だ。

その中に、開戦前に旗艦長門で佐伯湾から柱島に帰ったときの航路、ミッドウェーからの帰ったときの航路等に関しての記述があったので紹介する。

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「昭和16年11月19日 水曜日 晴 戦艦長門

昨夜半、急雨ありたりと云ふも、本日は晴れて気持ち良し。8時45分、出港。怒和島水道を珍らしくぬけて、柱島錨地に入る。日没時、中央浮標に繫留。」

この時は連合艦隊参謀長として戦艦長門だった。大和はまだ公試中。怒和島水道はクダコ水道の反対側、津和地との間の水道だ。珍しくとあるから、ここはあまり使われてなかったんだろう。

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「ミッドウェー作戦出撃、昭和17年 5月29日(金)晴」戦艦大和

航路については記載なし

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「ミッドウェー作戦後、昭和17年 6月14日(木)雨霧 戦艦大和

黎明時の状況陸地方面視界不良を思はしむるものあり、水偵による哨戒を取り止む。其内視界一層不良、無線方位測定も思ふに任せず、水深暗澹、佐伯空飛行機の位置通知等に依り、終には半速迄落として沖島の位置を探り、やっと発見して十時東水道に達す。速吸瀬戸附近及び濃霧、クダコ水道か釣島水道かといろいろ変更し乍ら釣島を抜けて七時柱島錨地に無事入泊す。」

レーダーのない大艦隊の霧中航行は大変だったようだ。しかも負け戦だ。沖ノ島が目印だったようだが、よく利用した宿毛湾泊地への侵入経路だったんだろう。そこから速吸瀬戸を抜けて濃霧の中でクダコ水道か釣島水道か迷った挙句、広い釣島水道を抜けて中島を回って柱島へ向かったということか。

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「ソロモン方面作戦支援のため柱島出港 昭和17年8月17日(月)小雨 戦艦大和

1230 七駆春日丸を併せて出港、クダコ通過1800佐田岬16節にて水道に入り五日の月入る十時沖島東方水路より外海に出撃す。」

この時はクダコ水道通過とあるので、間違いなく叔父の家のすぐ前の海を戦艦大和が通ったはずだ。しかし叔父は昭和15年か16年の生まれだから、さすがにこの時のことは覚えていないだろう。

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昭和18年5月8日トラック発、13日柱島泊地到着の時

昭和18年8月18日呉発、23日トラック到着の時

昭和19年1月10日トラック発、13日柱島泊地到着の時

 

昭和19年4月21日呉発、26日マニラ到着の時

航路の記載なし

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昭和19年6月23日中城湾発、28日呉到着の時

「遊撃部隊は1Sの他怒和島水道を通過、1Sは分離して1900クダコ水道を通過す。正に憩潮時にして全く潮無き珍しき通狭なり。瑞鶴は先を急ぎて途中より追越せり。」

通過は夜だからこの時ではない。

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昭和19年7月8日呉発、16日リンガ泊地到着の時

「7月8日(土)薄曇

0845大和武蔵を率い出港す。ツリム積み荷の為不良回頭に多大の時間を要したり。クダコ水道を1230通過」

3~4歳になっていたはずだから、この時の可能性が高いと思う。

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昭和19年11月16日ブルネイ発、24日呉到着の時

航路の記載なし

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昭和20年4月6日徳山沖発、沖縄特攻の時

航路の記載なし

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若き日のN少年が、山の上のスカイ畑で血沸き肉躍らせて歓喜の目で眺めていたのは、昭和19年7月8日、0845呉を出港してリンガ泊地へ向かった大和武蔵率いる連合艦隊が、1230、威風堂々クダコ水道を北から南に抜けていったその姿だったのではないだろうか。それはすごい光景だったことだろう。

あと9308日 録画機能の効果

今朝は久しぶりに早く目覚めたので、録画した半沢直樹最終回を見てしまった。現実離れしていて馬鹿馬鹿しい一面もあるが、暴れん坊将軍水戸黄門大岡越前にも通じるところがあり、これだけ話題になるということは、やはり日本人には勧善懲悪が似合っているのかな。

一年前にテレビが壊れた時、東京オリンピックもあるので奮発して、50インチの録画機能が付いたやつを購入した。見逃したオリンピック種目を後から見るの役に立てばいいかな程度の軽い気持ちだったが、実際に使ってみると結構役に立つ。

民生委員で訪問している高齢者の方が、ケーブルテレビではCMが無いので、暴れん坊将軍鬼平犯科帳も1話が40分ほどで終わってしまう、これが効率的だと話していたが、これと同じことだ。

CMを飛ばすだけではない。驚愕映像などと言って、ネットで拾った映像を使ったお手軽番組なんかも、その映像部分だけは見るが、大口を開けて笑っているだけの芸人が出てくる部分までもすっ飛ばしている。実に効率的だ。番組に間に延々と流されるあのCMも金をかけて作っているんだろうが、みじめだな。

国民はなんとなく、ただで民放テレビを見ているように思っているが、広告宣伝費の一部は商品の値段に上乗せされているのだから、決してただではない。その上乗せ分を国民みんなが負担しているということだ。

多くの人が録画して見るようになると、すっ飛ばして見てもらえないCMに金をかけているスポンサー企業は詐欺にあったようなものだし、一般国民もそんなCMの為に商品の値段が高くなるのは勘弁してほしい。

費用対効果が厳しく吟味されるようになり、放送局以外みんなが損をしているとわかるようになれば、スポンサー企業も株主の突き上げが厳しくなっているので、今のような野放図な支出は困難になるだろう。案外この録画機能が、今の放送界のビジネスモデルを破壊してしまうのではないだろうか。

地デジ化が叫ばれていた頃は、これが進めば地方の民放が炭焼き小屋になるとまで言われていたが、実際にやってみたら既得権益者に骨抜きにされて何も変わらなかった。デジタル化したんだからできることはいっぱいあるはずだ。携帯電話だけなくNHKも含めてそこらあたりの既得権打破は、菅総理に期待したいところだ。

あと9312日 まだあげ初めし前髪の................

先月のことだが、部屋の掃除をしていると古びた小さな段ボール箱が出てきた。何が入っているのかと開けてみると、40年近く前に東京で仕事をしていた頃の懐かしい品々が出てきた。

母親や友人から来た手紙類、送別会で友人たちからもらった寄せ書き等、こんなものが良く残っていたものだと感心してしまった。

捨てられない性格というのも困ったもんだと思いながら、中身を確認しているときに、ふと、「あれ」を捨てずにどこかにしまってあることを思い出した。その「あれ」は人には見られたくない。東京を引き払う時に処分しようと思ったが、ゴミとして出すのも嫌だったし、燃やす場所もなかったので、こちらまで持って帰ったことまでは覚えている。しかし、その後処分した記憶はない。

その「あれ」とは、正確に言えば今から48年前、まだ20歳の春に、残雪の残る信州のとある町の、リンゴ畑に連なる道で出会った、2歳年下の美しい女性、H子さんからの手紙である。会ったのはたった1日で、お互い住所を交換して別れたように覚えている。残念なことに、今となってはそのことが果たして夢か現か、どこまでが夢で、どこからが現なのかわからなくなってきている。

 

 まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり


やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

 

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな


林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 

信州、リンゴとくれば、藤村の「初恋」はこの物語にはなくてはならない装置だったのかもしれない。当初この夢の世界とだぶらせて、美しい世界を夢想していたのも事実だ。その後、半年ほどしてもう一度、今度は東京で会うことがあった。しかし、あわただしい現実は、もう夢の世界ではなかった。そこにあるのは楽しく、美しいものばかりではない。残された手紙とは、信州で別れて東京で再会するまでの半年間の夢の記録でもあるはずだ。

 全部で30通くらいはあるだろうか。私もそれくらいは書いたということになるが、その多くは近況報告とか、その日に気が付いたこととか、たわいないことだったような気がする。せっかく48年間蓋をしてきたものだから、今更思い出しても意味はない。夢の世界に浸るには年をとりすぎた。幸いシュレッダーがあるので、探し出して誰の目にも触れないうちに処分するのが吉だろう。

あと9322日 読了「THE REMAINS OF THE DAY」

2017年10月25日、あと10378日の記事で、ノーベル賞作家カズオイシグロの「日の名残り」を読んだ感想を述べたことがあった。そしてその最後に「執事とイギリス貴族がどんな英語を話しているのか気になったので、kindleで原書を購入した。長い付き合いになりそうだな。」と締めくくった。

それから約3年たち、今月、9月10日午前0時53分にその長い付き合いもようやく終わった。曲がりなりにも英語の文学作品を全部読み通したのは生まれて初めての経験だった。ビジネス英語なら単語さえわかればどうにでもなるが、文学作品はそうはいかない。どうしても日本語にならないところはハヤカワ文庫の土屋政雄訳にお世話になった。

また、すべての文を一度意味を取った後、訳本で確認しながらだから、なかなか進まない。結局3年かかったとはいえ、毎日読んだわけではないし、2~3行しか読まない日もあれば2ページ読むこともあったが、何回も出てくる単語は覚えるので読むスピードはだんだん速くなった。

結果的には、訳本も一語一語しっかり読んでいったので、日本語の勉強にもなったようだ。外国語の勉強方法としてはこの方法は案外使えるのかもしれない。時間がかかるのが玉に瑕だが。また、この土屋政雄氏の翻訳がすばらしい。英語だけでなく日本語の達人でもある。

読み終えた時は、多少自分なりの達成感はあったが、今更こんなことをやっても何の役にもたたないだろう。しかし役に立たないことだから面白いともいえるし、そんなことをゆっくりやれることが、案外人生で最高の贅沢だといえるのかもしれない。

今はイプセンの「A Doll's House」を読んでいる。若いときから戯曲に興味があり、訳本はたくさん持っているので、白水社イプセン名作集のなかにある杉山 誠訳「人形の家」を参考にしている。ただ40年前に購入した本なので、字が小さい。

あと9322日、94歳まで続ければ、あの世でシェークスピアに会った時に、挨拶位できるようになるだろうか。

あと9337日 安倍総理退任

とうとう安倍総理が辞めてしまった。退任記者会見でも丁寧な対応をしていてその性格が表れていたが、質問する記者の底の浅さだけが浮かび上がるという、一風変わった会見だった。

そこで思いだされるのが昭和47年6月の佐藤栄作元総理の、総理大臣退任記者会見だ。「国民に直接話かけたいので新聞記者は出ていけ」とテレビカメラの前で言い放ったのには驚いた。言ったことも言ってもないことも、さんざん好き勝手に捏造されてきて、いい加減頭に来ていたんだろうか。

とすると、あれから48年たつが、今でもフェイクニュースを垂れ流す新聞記者は、何の進歩もしていないということになる。ただ国民の頭の中はだいぶ進歩しているので、今回の記者会見で安倍総理が、新聞記者は出ていけと言ったとしても、新聞記者はあの時以上に怒り狂うだろうが、国民はそれほど驚くことはなかっただろう。

ただ、佐藤元総理はテレビは無邪気に信用していたようだ。あの頃はまだ今よりまともだったのかもしれない。テレビも信用できないという今の混とんとした社会を知ったら、佐藤栄作さんもびっくりだろう。

あと9346日 テレビを見ると馬鹿になる

毎年夏になると、テレビでも大東亜戦争終戦に関する番組が放映されるようになる。若い頃はよく見ていたが、本当の戦争体験者が少なくなるにつれて、だんだんとみる気が失せてきた。本当の体験者がいなくなったのをいいことに、テレビ番組制作者側の思想的偏向や誘導が目に余るようになったからだ。

子供の頃テレビを見ていると、親にテレビなんか見てると馬鹿になるからやめなさいとよく言われた。これは子供の勉強がはかどるようにするための方便だと思っていたが、最近では案外正鵠を得ていたのかもしれないと思っている。

今年は政府主催の戦没者追悼式を見ていて、ふとこれをいつまでやるんだろうと考えてしまった。親兄弟子弟等の当事者がほとんどいなくなったのに、その孫やひ孫を集めてまでやることなんだろうか。

戦争とは「先の大戦大東亜戦争だけではない。明治以降に限っても、日清日露、義和団の乱、シベリア出兵、尼港事件、第一次大戦ノモンハン事件、張鼓峰事件等様々な戦場で多くの軍人が国のために働いて戦死したことは忘れてしまったのか。

原爆記念式典も同じだ。原水爆禁止などというスローガンがイデオロギーに毒されていることは以前から知られていることだが、核攻撃を無効化するような画期的な兵器が出てこない以上、いくら祈っても核兵器が無くなることはないだろう。

それに核兵器禁止を祈念するなら、被害国日本ではなく加害国アメリカやほかの核大国でやればいいのに。被害国日本が「あやまちは繰り返しません」などと馬鹿なことを言っているんだから、付け込んでくるんだろう。

原爆記念式典も、世界で唯一の被爆国、すなわち世界で唯一核を持つ権利を有するはずの、日本の核武装を防ぐための装置かもしれないと思うのはうがった見方だろうか。

或いは、戦没者追悼式や原爆記念式典で平和を祈るのも1つのセレモニーとして、どこかの利権に繋がっているのかもしれない。

75年目の今年なんかちょうどいい時期だったと思うんだが過ぎてしまった。次は5年後の80年あたりでやめようという政治家はでてこないのだろうか。この政府主催戦没者追悼式と原爆記念式典二つの行事をやめる時が、敗戦の呪縛を離れて、前を向いた真の意味で独立国に脱皮できるときではなかろうか。

あと9355日 過疎の島

先日、女房の父親の実家がある、瀬戸内のN島に墓参りに行ってきた。最後に行ったのは、もう20年近く前になるから、ふた昔も前のことになってしまった。うちの子供らが小さかった頃、夏休みに海水浴に連れて行ってやったが、その子供等も今日8月13日に末っ子が30歳になった。時のたつのはほんとうに早いものだ。

その実家のあとを取っていた叔父のNさんが亡くなったのが先月だった。残念なことに武漢肺炎の影響で女房も葬儀に行けなかった。今の時期に亡くなる人は気の毒だ。このNさんはちょっとアクの強いところもあったが、寝たきりの両親を下の世話をしながら自宅で最後まで看取った立派な人だった。言うのは簡単だが、なかなかできないことだ。

Nさんとはあまり話したことはなかったが、今でも印象に残っているのが、山の上のスイカ畑にスイカを取りに行ったときに、眼下に輝く海を指さして、「あそこを戦艦大和が通ったのを見たことがある。」と話してくれたことだ。どうやら、その海峡を抜けて連合艦隊が柱島に向かったらしい。

連合艦隊の泊地が柱島にあったことは知っていたが、迂闊にもそのルートに関しては全く考えたこともなかった。

その時Nさんが指をさしていたのはクダコ水道と呼ばれる場所で、海保の資料によると吃水10.4m幅38.9mの大和が通過するには幅も水深も十分にある。

「クダコ水道は、安芸灘南部、中島と怒和島の間にあり、最狭部の中央にあるクダコ島により東・西二つの水道に分かれ、 いずれも幅約0.6海里で、最大水深154mの水道です。この水道は釣島水道とともに安芸灘~伊予灘に通じる主要な 航路の一つです。東側の水道では、大潮期の平均流速は4.6ノット、西側の水道では、大潮期の最強流速は6.5ノットに達することがあります」

また、情島津和地島のあいだにある諸島水道を利用したと書かれてある資料もあるようだ。たしかに伊予灘に出るには、諸島水道が最短距離になるが、Nさんが実際に見たと言っていたのだから、クダコ水道も利用していたことは間違いないだろう。

N島の人口も最盛期の五分の一になり、今では過疎の島になってしまった。戦後のミカン生産で渦巻いていたあの熱気はどこへ行ってしまったのだろう。

子供のころのN少年が、クダコ水道に浮かぶ戦艦大和を見て血沸き肉躍らせた海岸も、テトラポッドで埋め尽くされて人影はなかった。