無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9223日 A I 翻訳

言語分野においてAIは驚くべき進歩をとげているらしいが、最近翻訳ソフトのDeepLを使ってみて納得した。結構日本語らしい日本語になっている。とうとうここまで来たかという感じがした。自分で学習して知識を増やしていくらしいから、もう人間なんか出番がなくなるのも時間の問題ではないのかな。

その昔、多くの学生がお世話になった旺文社の大学受験ラジオ講座で、英語講師だった名前は忘れたが早稲田の教授が「英語の力は単語の力、単語の力は英語の力」とよく言っていたが、ねじり鉢巻きで一生懸命単語を覚えたところで数千語が限界だろう。しかしAIには限界がないのだから初めから話にならない。

半世紀ほど前の話だが、知り合いの東京外語大の学生が、言語は学問をやるための道具で、言語を習得した後で何の学問をやるかが大切だと話していたことを思い出した。私なんかは一つ言語を習得して、通訳でもやればそれで飯が食えるだろうと羨ましく思っていたが、優秀な学生は当時から外国語は学問をするための便利な道具であって、それ自体に意味があるのではないということがわかっていたということか。

これからAIがますます進歩して、道具として完璧に働きだしたとしたら、恐らくさっきの知り合いのような人は、東京外国語大学で4年間言語習得に時間を費やすことなく、初めからやりたい学問をやることだろう。

大学の一般教養の英語の授業も変わるだろう。あの退屈極まりない、訳していくだけの授業は今でもやっているのだろうか。試験の前になると、どこかの翻訳者に金を払って試験範囲を訳してもらった冊子が、有料で回ってきたりしていたが、AIによってそんな必要もなくなる。

その前にそんな授業自体意味がなくなるし、そんな授業しかできない教員の居場所はなくなるに違いない。

それでもAIに劣るとはいえ、機械やソフトに頼らずに外国語ができたら、人として、それはそれで楽しいことだろう。

先月、スタンフォード大学西教授著「アメリカ帝国滞米50年」という本を読んだ。この人は関学卒業後ワシントン大学大学院に留学したが、渡米したとき会話はできなかったらしい。その代り、ヘミングウェイを辞書なしで読めるほど単語は知っていたそうだ。

1年目は寝る間も惜しんで勉強しても成績は後ろのほうだったが、何とか進級できた。2年目になってアメリカ人同士の会話の音が聞こえるようになった。その音に単語の意味が結びついて会話ができるようになった。という風なことが書かれてあった。

「100語で話せる英会話」なんてあるわけない。そんな会話に何の意味もないと言われればまさにその通りと言わざるを得ない。

それをやろうとしているのが日本の義務教育だが、日本語も碌に知らない子供に英会話を教えてどうするつもりなんだろう。そのために莫大な予算を使って英語圏の若者を講師として各学校に配置しているが、男女共同参画ほどの無駄使いではないにしても、これも何かの利権がからんでいるのかな。

結局のところ、外国語習得の早道は「英語の力は単語の力、単語の力は英語の力」ではないが、単語を覚えることだといえそうだ。まあ、滞米50年の大学教授が言うのだから間違いないだろう。急ぐ人や仕事で必要な人はAI翻訳を利用して、外国語が好きな人、趣味の人は会話の練習ではなく、とにかく一生懸命単語を覚えるということかな。

あと9237日 まあええじゃないか

「本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」ということで79年前の12月8日早朝大東亜戦争が始まった。待ってましたとばかりに、ジャップの卑怯なだまし討ちだと、アメリカの戦意高揚にさんざん利用されてしまった。誠に愚かな攻撃だった。

ずらっと並べられていた、のろまで役立たずの旧式戦艦を着底させただけで、修理ドックも石油タンクも攻撃しないという中途半端なやり方をみていると、4年も続くあの戦争があれほどのものになるなど、まるで予想もしてなかったかのようだ。

アメリカが攻撃を事前に知っていたということは今では当たり前のことだが、靖国神社遊就館の展示に文句を言ったように、世界中が認めても彼らは認めないだろう。彼らにとってリメンバーパールハーバーアメリカ=正義のよりどころだからだ。

 たった5か月後のミッドウェー海戦では、帝国海軍の暗号を解読していたことを誇らしげに認めているのにな。真珠湾の時はその組織が眠っていたのだろう。

昔は兄貴とこんな話を始めると終わることがなかったが、最近はあまりのってこなくなった。体調が悪いと言って酒もあまり飲まなくなったのもあるかもしれないが、案外忘れているのかもしれないと思うようになった。

今でも仕事をしているし、71歳だからボケるにはまだ早いが、以前に書いたことがあるように子供の頃の話なんかもけっこう忘れている。自分のことを棚に上げて言わしてもらえば、まあ仕事が激務だったからその分脳の衰えも早いのかもしれないな www 閑話休題

この75年間で、現場でこう戦ったという当事者の書いた本はたくさん出版されてきたが、当時の指導者の、こう戦わせたという本は見たことがない。多くの指導者は黙して語らずで、墓場まで持っていった。そんな中で積極的に録音に応じたり、本を書いたりした者もいたようだが、自分を正当化するために都合のいいように利用しているだけで、かなり加減なものもあったようだ。

戦犯裁判が行われていた関係もあるのかもしれないが、結局戦争の経緯が総括されることなく、経済発展の宴に酔いしれて、「まあええじゃないか」と踊り狂った挙句、三島由紀夫の言ったとおり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残ったのかもしれない。

今回の選挙でアメリカの弱点もさらけ出されたし、そろそろ酔いから覚め人も出てきていい頃なんだが、もう残ってないのかな。

あと9248日 レーザープリンター

64歳で次年度の契約を断ってサラリーマン人生を終了したが、いろいろ困る事もある。セコイ話だがプリンターもその一つだ。有り難いことに職場のプリンターはインクジェットもレーザーも自由に使えたので、家では持ったことが無かった。ところが仕事をやめてしまうとそうはいかない。仕方ないので一番安い白黒レーザープリンターを購入することにした。

購入したのがブラザーHL-L2320Dという、その時ケーズデンキオンラインショップで8187円で売られていたプリンターだ。もっと安いところもあったが、修理のことを考えて近所に実店舗のあるケーズデンキを選んだ。

このプリンター、印刷スピードはめちゃくちゃ遅いが、この値段にしてはきれいにプリントできる。その後の町内会長や民生委員などで必要な資料をプリントするのに非常に役に立った。自分でいうのもなんだが、祭り関係の資料なんかは過去20年ほどの中では最高の出来だったのではないのかな?

しかし、今年の3月くらいから縦に白い線が入り、色も少し薄くなってきた。ネットで調べていろいろやってみたが、一向に回復しない。仕方ないのでそのままの状態で使ってきたが、どうせ配布するならやはりきれいな資料を配布したい。そこでドラムを交換してみることにした。

純正品は高いのでチップスというところでDR23Jドラムユニットのリサイクル品を購入して使ってみたがなおらない。そこで原因はトナーカートリッジかもしれないと、以前交換したが廃棄方法がわからないので段ボール箱に詰め込んでいた古いトナーカートリッジを取り出してきてセットしてみたところ見事に回復した。結局去年交換した純正品のトナーカートリッジが原因だった。

ずっとバカ高い純正品を使ってきたのは、こういう時のためだとばかり、早速メールで問い合わせてみた。

要求された通り、シリアルナンバー、購入証明書、printersettingsをメール添付で送って、どんな返事が来るか、別に期待もせずに待っていると、予想通りの返事が来た。

1.トナーが外箱記載の製造日から2年以内という保証期間を過ぎているので劣化もある。

2.トナーをほとんど使用している。

3.自分で新しいのを購入してくれ。

次は想定外だった。

4.以前のトナーが使えるならそれを限界まで使ってくれ。

これは大きなお世話だ。

たかがトナーカートリッジだが、おそらくトナーの劣化ではなくてカートリッジの不良だと思っている。現にもっと古いトナーでもきれいに出力できているんだから、話が矛盾している。それを限界まで使ってくれと言われてもな。

まあ、コールセンター○○さんにも手間を取らせたので、お礼を言って終わりしといたが、純正品以外を使用すると保証しないとかいうなら、純正品使用者にはもう少し便宜を図ってもいいのではないのだろうか。たかがトナーカートリッジとはいえ、使い切る前に異常が出るのはアウトだろう。

せめて、原因を調べるので送ってくれぐらいは言ってほしかった。

なんかの本で読んだが、昔サハラ砂漠ロールスロイスが故障したとき、その修理に技術者がヘリでやってきた。その後いつまで待っても請求書がこないので、そのオーナーがロールスロイス本社に請求書を送るように連絡をした。そして数日後手紙が送られてきた。そこには「ロールスロイスは故障しません。」と書かれてあった。

イギリスもダメになったが、チャイナに依存するようになって日本のメーカーもダメになった。

あと9256日 キレる老人

このブログを書き始めて4年半ほどになるが、今までに「あと10911日」「あと10848日」「あと10827日」の3回、「キレる老人」を見て笑ってきた。そんなことをしていたので天罰が当たったのかどうか、なんと今回はその当事者になってしまった。さんざん怒鳴り散らされたが、いやはやなんとも、もう笑うしかなかった。

相手は私より少し年配というところだろうか。70代前半くらいかな。その日は女房の母親を一年ぶりに大学病院に連れていく日だったので、朝9時前には病院玄関で女房と母親を下ろし、車を止めるために第2駐車場へ向かった。

第1駐車場をつぶして駐車場増設工事が行われているために、第2駐車場もいっぱいで、車があふれていた。3回ほど回っても止める場所がなかったのであきらめて少し離れた第3駐車場へ行こうとしたとき、ちょうど出口あたりに止めてあったトラックが動き出した。

自分の車が一番近い位置にあるので、これはラッキーとばかりにバックでその場所に車を停めた。その時に白線の外側に一人の老婆が立っているのが邪魔でしょうがなかったので、窓を開けて「そこにいたら危ないですよ」と声をかけて気を付けて入れた。

その時だった。右方向から一台の軽4がすごい勢いでこちらへやってきて、すぐ前に停まるやいなや、勢いよくドアを開けて一人の老人がすごい剣幕で現れた。何事かとこちらも窓ガラスを全開にして様子をみていると、大股でこちらへやってきてドアに手を置いて目を吊り上げて凄んできた。その通り正確に書くと「こりゃー、おまえなんでそこに停めとるんじゃい、そこはわしが停めるとこじゃ、のかんかい。はよのけ」

まるでチンピラだ。どうやらこの場所を譲れと言っているらしい。どこに停めようが大きなお世話だ。見た感じ、身元はしっかりしているようにも感じたが、よくわからない。この状態で窓越しに手を出されたら、常磐道であった煽り運転事件と同じ状態になってしまう。ケガしてもさせてもいけないので、さっさと窓ガラスを上げた。すると相手はあっさりと車に帰った。これはあきらめたかと思っていると、じいさん、こちらをにらみながら盛んに手を振って、出ていけという所作をしている。

その時、ふと先ほどわきに立っていた老婆のことを思い出した。そして、ひょっとしてあの老婆が場所取りをしていたつもりだったのかもしれないということに気が付いた。こんな込み合った公共の駐車場で、車もなしに駐車スペースを確保することが許されるのか、はなはだ疑問だったがとにかく降りて話を聞いてみることにした。

近づくと最初少し驚いたようだった。「よくわからんのだが、いったいどういうこと?」と聞くとその老婆が「この場所をとっとったのに~。」といかにも恨めしそうに言うので思わず笑ってしまった。年寄りが黙って白線の外に立っていたところで場所取りにもならんだろうに。

まあこの老婆が場所取りしていたというのならそれでいい。「ああ、そういうことなん。それなら譲ろうわい。怒らずにちゃんと説明してくれんと何のことかわからんよ。」と言って車に乗った。車を出しながら、先ほどの老人に手を振ると相手も返したきたから、この時は自分の短気を少しは反省していたのかもしれない。それならいいんだが。

キレる老人も見ている分には面白いが、相手にするのはかなり疲れるということがよくわかった。

あと9267日 アメリカ大統領選挙

ネットから情報を集めていると、今回のアメリカ大統領選挙が正しく行われたとは思えないんだが、当のアメリカ人はどう思っているんだろう。

本人確認もできない郵便投票。選挙は民主主義の根幹であり、スタートであるはずだが、本当にこんなのでいいんだろうか。民主主義の権化のようにふるまい、全体主義国家をたたいてきたあのアメリカが、自分たちの大統領を選ぶ一番大切な選挙がまともにできなくなっているというこの現実をどう見たらいいのか。

冗談ではなく、次回からはジンバブエのように国連の選挙監視団をいれて監視してもらう必要があるのではないか。

バイデンが過半数をとったと大手メディアが宣言して、バイデンは政権移行の準備にはいったらしい。トランプは裁判に訴えて引く気配はない。当選を大手メディアが決めるのだろうか。そんなことはないだろうが、とにかくこの選挙制度はわかりにくい。

学生の頃何かの授業で「アメリカ合衆国の政党と選挙」という高い本を買わされたことがあったのを思い出した。さっそく本箱を探してみたらまだあった。捨てられない性格というのも困ったものだ。大統領選挙のあたりを読んでみようと試みたが、情けないことに文字が小さすぎて読む気もおこらなかった。あの頃は別に苦にもならなかったはずだが。

しかし、アメリカの現職の大統領が、選挙に不正があったと裁判をおこしているのに、まるでそんなことなかったかのように、SNSからすべてのメディアが無視して、とっとと既成事実化しまうというのも民主的なやり方ではないだろう。

民主主義の根幹である大事な選挙が、外国に干渉されたかもしれないというのに、それに蓋をしてバイデン勝ったトランプ負けたとお祭り騒ぎをしているアメリカ。大事な選挙を虚仮にされたかもしれないとしたら、ここは本来怒るべき状況だろう。ひょっとしたらアメリカもここまでか。アメリカだけではない、行き過ぎた民主主義そのものが破綻に向かっているのような気がしている。

70年ほど前に、あの宋美齢にコロッとやられてしまったくらいだから、もっと巧妙な現在のチャイナにかかったらひとたまりもないのかもしれない。誰が勝ったかということよりも、民主主義国家としてのアメリカが信用できるのかどうか、それが問われているということに肝心の政治家が気付いているのだろうか。

あと9277日 旅に出たい

定年退職してからまる8年たち、今年4月から9年目に入った。退職後再雇用を4年で辞めて、毎日が日曜日になったわけだが、月日が経つのは早いものだ。

9年と言えば小学校入学から中学卒業までになるが、それは途方もなく長い時間だったように記憶している。この加速された時間の流れの中では、残りの時間などあっというまに過ぎてしまいそうだ。

再雇用の4年間で全国神宮神社参拝の旅と称して、北は平泉の高館・宮城県鹽竈神社から南は宮崎神宮まで青春18切符で旅をしたことがあった。3年手帳を見ながらその跡をたどってみると、よく行ったものだと我ながら感心してしまう。

こんなわがままな旅は一人だからできるのであって、人と一緒だったら必ずどこかでけんかになり、お互いが嫌な思いをするに違いない。それは日常の世界だけで十分だ。旅とは日その日常から離れたものでなければ意味がないと思っている。

旅とは、なにげなく過ぎ去ってゆくときのながれに打ち込まれた一本の杭なのかもしれない。

そんな旅も、コロナと膝の故障のおかげで遠のいている。コロナはいずれ納まるが、膝は如何ともしがたい。つい3週間ほど前になるが、近所の公園の剪定作業を手伝っていて、一気に悪化してしまった。毎日5000歩どころか、数日はまともに歩くこともできない状態だった。

自由に歩いたり走ったりできるということがどれだけ有り難いことだったか、改めて気が付いた。近頃は少し回復して、サポーターを巻いてゆっくりなら歩けるようになった。このサポーターにもいろいろな種類があり、何種類か試してみたが、百均で売っているものでも十分役に立つということがわかった。ダメもとで買ってみたが、まさに百均恐るべしだ。

今年は無理でも、来年の春あたりには百均サポーターともおさらばして、奈良大和あたり歩き回ってをみたいと思っている。

あと9282日 軍人は要領を本分とすべし

両親が健在だった頃のことだから、20年近く前のことだ。年末に両親と3人で墓掃除をしていると、白髪の体格のいい老人が近くを通りかかった。知らない人だったのでそのまま作業を続けていると、突然その人が駆け寄ってきて父の名前を呼んだ。

それに気が付いた父は「おう」と声をあげてそちらの方に走っていった。どうやら同じ部落の出身者のようだ。しばらく二人で話してそのまま別れて行った。父は農学校をでてすぐに朝鮮にわたったし、同世代の多くは戦死しているので、とくに老年になってからは同じ部落の人にも親しく話す人はほとんどいなかった。

そんなこともあって、けっこう長い時間話をしていたその人が誰なのか、ちょっと気になり、再び作業にかかった父に尋ねてみた。

父は「ああ、あの人か。母屋のMさんよ。」と言って、さらにつづけた「あの空挺団のMさんよ。」ここで私もあの有名な元陸将かと気が付いた。こちらでは親戚でも母屋とか上とか下とかいろんな言い方があるので未だによくわからないが、このMさんはうちの母屋にあたる家の人らしい。

Mさんのことは小さい頃からよく聞かされていた。陸軍士官学校をトップで卒業して少尉の時には連隊旗手をやっていたらしいから、かなりのやり手だったようだ。戦後陸上自衛隊にはいって最後はどこかの師団長で終わったから、潰しのきかない旧軍関係者のなかでは、戦後を無事にうまく生きてきた幸運な人だともいえるのかな。

このMさんがこの地方で有名なのは、どこかの師団長としてではなく、その前の習志野第1空挺団長としてだった。ウィキペディアにも名前がでているが、実は本人も一番これになりたかったそうだ。

というのも、このMさんは、空挺生みの親と言われる初代団長の衣笠陸将の部下として空挺団創設に携わった中心メンバーのひとりだった。だからどうしても一度は団長をやりたかったんだろう。そしてやっとなれたと思ったら人生うまくいかないもので、訓練中の事故の責任をとって、残念ながら任期途中で辞めざるを得なくなってしまった。

この辺りまでは若い頃から聞いていたので、なかなか立派な軍人らしい軍人だったような印象を受けていた。

ところが墓掃除も終わって家に帰ってからだっと思うが、Mさんに関して、父が違った話を聞かせてくれた。このMさんは戦後地元ではすこぶる評判が悪かったらしい。自衛隊で華々しく活躍していたMさんにとっては、郷里の不評など歯牙にもかけなかったと思うが、その不評の理由というのがおもしろい。

Mさんのいた部隊に兵隊として配属された同郷のHさんとしておこう。上官に顔見知りのM中尉がいることに気が付いたH二等兵はたいそう喜んだ。これですこしは目をかけてくれるだろう。そう思ったHさんはMさんに声をかけた。ところがどうだろう。目をかけるどころか、事あるごとに人以上にひどいめに叩かれたらしい。

これがHさんだけではなかった。Mさんと関係した同郷の兵隊でひどいめにあわされていた人がほかにもいたらしい。

Hさん曰く「このMさんがかわいがっていた兵隊はどのような人かというと、大地主の息子、大企業のの社長の息子、資産家の息子とか、とにかく自分に役にたちそうな人種で、同郷であろうが貧乏百姓の倅なんか眼中になかったのよ。軍人は要領を本分とすべしを身をもって教えてくれた、とんでもない男だった。」

父からこの話を聞いて、Mさんの戦後の出世もひょっとするとこういうことだったのかと、自分の中でMさんの評価が音を立てて崩れていったのが懐かしい。