今日は4月1日から数えて33日目になる。仕事をやめる前は、ずっと家にいることは、小学生の時の夏休みと同じような感覚だろうと考えていた。朝起きると、さあ今日は何をして遊ぼうかとわくわくしていた感覚ははっきり覚えている。
しかし、すぐにわしは10歳の少年ではなく、64歳のじじいだという現実を思い知らされた。経験というつまらないもののお陰で先が見えるか、或いは見えるような気がするのか、少しもわくわくしない。
結局、じじいは少年の延長ではないということなんだろう。つまり、10歳の少年プラス54歳イコール64歳の少年ではないのだ。こう書くと当たり前のことのようだが、ほとんどのじじいは気が付いてないのではなかろうか。年をとるということはこういうことなんだと気が付いた時は本当にがっかりした。
わしは子供の頃の記憶がたくさん残っていて、そのときの感覚も細部までよく覚えているので、周囲の大人をよく驚かせていた。少し衰えたとはいえ、今でも古いアルバムの写真をみると、それを写したときの状況などがまぶたに浮かんでくる。
そして頭の中にはいつでも少年が存在していたので、いつでも少年の時間にとけ込めるのだと信じていた。しかし現実に少年と同じ時間を持てるようになると、その持てる時間は同じでも時間の流れ方やそのベクトルは全く別のものだという事実を知ってしまった。
昔読んだミンコフスキーの「生きられる時間」という本に、このようなことを何か書いてあったような気がするが、小難しいこと言わなくても結局このような経験のことじゃなかろうか。喪失感というのかな。この喪失感から逃れる方法はないんだろうか。