無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10916日 道を求めて

子供の日 国旗掲揚

 今日は子供の日ということで、長男夫婦が二人の孫を連れて昨日から泊まっている。まあ来てくれているうちが花ということなのかもしれない。女房が元気でいるうちはいいが、万が一先に死んだらあまり寄り付かなくなるような気がする。じじいだけで対応は無理だ。

 さて前回の最後に書いた喪失感からどう逃れるかという問題だが、わしはここで昔読んだ「若き求道者の手記」という本を思い出した。作者は今できることに没頭することによってストイックに悟りを求めていたのだろうが、若くして亡くなった。

亀井勝一郎の「室町芸術と民衆の心」を読んだときも感じたが、とにかく今できることを何でもやりとおすことが一つの道につながるということだ。そこでわしは家の掃除と飯炊きを徹底的にやろうと決めた。掃除道、飯炊き道を究めることで喪失感は克服できるかもしれない。

 とまあこんな具合に心のけじめをつけて、女房が仕事にでかけたら、雑巾がけから始まり、洗濯、風呂掃除、流しの掃除、買い物、晩飯の支度と忙しく働いている。やってみてつくづく思うが、女はすごい。主婦業を馬鹿にしているキャリアウーマンとか、養ってやっているとかえらそうにほざいているそこいらの月給取りも一度やってみたらいい。一週間やったらうつになりそうだ。わしは道を究めるという目的を作ることによって、精神の平衡を保っているが、女はそんなくだらない理屈抜きで、それを淡々とやれるのだから、それだけで大したものだと思う。