無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10915日 室内歩行7000歩

 たまにはしんどいと思うこともあるが、手を抜かずに掃除をしている。これも道だと思えばこそできることで、途中でやめればすべてが無駄ということになるのかもしれない。

 わしは健康のため午後から1時間10分歩くことにしている。SH007の歩数計で測って約7000歩だ。こう書くと普通は道を歩くとか、公園を歩くとか、ジムへ行って歩くとかを想像するのだろうが、わしは家の中を歩いている。

女房にはやかましいと怒られるが、仕方がない。小さな家だが、細長い構造なので、台所から廊下を通って玄関まで片道15歩だ。往復で30歩、240往復すれば7000歩を超える。

これも同じで「道」だと思えば単調な繰り返しも全く苦にならない。それどころか最近この単調な動きが精神の集中につながることに気が付いた。誰にも会わないし、交通事故の心配もないので歩くことに集中できるのだ。歩いているうちに様々なことが頭に浮かんでは消えていく。浮かんできた雑念に付き合って少し遊んでみるのもまた楽しい。

数息法とかやっても100も数えたら寝てしまうのがおちだが、歩いているので寝ることもない。しかもエアコンがきいているし、天候に左右されない。

しかし女房には単なる引きこもり扱いされて、歩くぐらい外で歩けといわれている。女はえらいし尊敬もするが、どうも「道」というものを理解する能力には欠けているようだ。