無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10900日

 ここのところ暑い晴れの日が続いている。とうとう昨日から服を半袖にした。30歳のとき沖縄の名護市出身の人と知り合いになり、沖縄で花の栽培をしたら儲かるからやらないかと誘われたことがあった。平均気温が高いからよく育つし、本土から移住するときは服を買わなくていいと言っていた。どうしてかと尋ねたら、冬服の袖をちょんぎって半袖にすればいいからといっていたが、衣替えの今の季節になるといつもこの話を思い出す。

 沖縄と言えば、わしは昭和47年沖縄復帰の年の10月に、航海訓練所練習船北斗丸という、蒸気タービンを主機関にした1000トンほどの小さな船の実習生として行ったことがある。練習船としては戦後初めての寄港だったらしい。できたばかりの安謝新港に入港し、友達数人と那覇市内まで歩いて行った。国際通りなんかも寂しいもんだったし、まだ車は右側通行で物価も安かった。帰りはタクシーで帰ったが、基本料金50円だったのには驚いた。国電の初乗りが30円だった時代だ。

 翌日、南部戦跡めぐりという観光バスに乗って海軍壕、ひめゆりの塔摩文仁の丘まで行ったんだが、糸満あたりで、バスが1台通るのがやっとという海岸の未舗装の道を走ったような記憶がある。人もあまりいなくて、ひめゆりの展示物にも違和感は感じなかった。復帰してよかったなあと言う雰囲気だった。

  ところが6年前に出張で、40年ぶりに沖縄に行ったんだが、驚いたね。言っちゃ何だが、みんなこぎれいで、単なる税金の配分率の高い日本の1地方として、解け込んでしまっていた。40年前と同じコースを路線バスで走ってみても、誰も通らないだだっ広い道路、しかもあちこちで土木工事が行われていた。ひめゆりの展示もなんか承服できんとこがあった。今朝の○○新聞(全国的に逝ってよしと言われている新聞)に、基地はいらない、政府の補助が無くても観光業でやっていけるなどと書いてあったが、40年の沖縄の変貌をみてしまったわしには、莫大な本土支援のインフラ整備があっての観光業だろうとあきれたね。さすが○○新聞。どうせあの共同通信あたりから買ったものだとは思うが。