無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10896日

 わしは昔から、教師だけはなれないと思っていた。とくに、義務教育の教師はわしにはできないと思っていた。他人の子供を教え、正しく導くなどということが本当に人間に可能なのか、じじいになった今でもわしは疑問に思っている。自分の子供を育ててきた30数年、わしはわし自身に、自分の心の中にうそやごまかしが無かったかと常に問いかけて来たが、残念ながら無いといえたことはほとんど無かった。それでも子供らは親のいいところだけをみてくれて、しっかり、まじめに育ってくれたが、これは親子だからできることで、金銭が伴う他人の教育ではそうはいかないだろう。

 公務員で身分が安定しているからとか、以前なら奨学金を返さなくていいから教師になるとか、そんな動機でなったようなひともたくさんいるんだろうな。職業として教師を選ぶんだから、おそらくあまり考えずになったんだろうが、まじめな人ほど教師になってから悩むんだろうな。中には教師は天職だとか、教えるのが好きだからとかいっているのをどこかで読んだ事もあるが、わしはそういうのは教育を真剣に考えたことのないか、あるいは自分を偽っているとしかおもえないね。身の程をしらないというか、かえって怖いよ。

 一度でも真剣に自分の愚かさと向き合ったなら、人に道を説くなどということは恥ずかしくてできなくなるということはわしにはよくわかっている。人にこうしたらいいとか、ああしたらいいとか、こういうちょっとしたことでも躊躇って言えなくなってしまうんだな。う〜んと唸ってだまってしまうしかないので、煮えたやら沸いたやらわからんとか、優柔不断とか思われているんだろうが、自分に正直に生きようと思えば、これもしかたがない。世の中に合せる必要の無い身分になってせいせいしているよ。