無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10890日

 毎日、何かにとらわれるということはなく、女房が仕事にでかけるたあと、6時30分くらいから今日の道が始まる。掃除、買い物、飯炊き、途中10時と3時に休憩、午前の空いた時間でネットをチェックし、産経ネットビューで新聞を読んでいる。古事記神代巻100回読破は続いているが、読み始めると眠たくなるので残念ながらあまり進まない。それでも今6回目だ。神前に座って30分、7000歩に70分、すべて自分のためであり、全く負担には感じない。年金で贅沢はできんが、飢え死にする事はない、誰かに養ってもらうという引け目も無い。きのうのブログに書いたように、おそらくわからないで一生終わるだろうと思うが、そのときは来世に期待しよう。焦る事は無い。この生活を40年待ってやっと手に入れたと思うと感無量だな。

 今日は可燃ゴミを出した後、家の周りの掃除をしておいた。生ゴミにコバエがわいて困るのでなんとかしなくてはいかんな。ときどき使う2階の風呂を掃除したが、排水溝が髪の毛と汚れで真っ黒だったよ。もし、わしからこれだけの髪が抜けたのなら、はげになっとるぞと思うぐらいの量だった。ぞっとしたよ。硬いしっかりした髪だったから息子らの髪だろうと思うが、うらやましいね。

 今日は女房が早く帰ってきたので、晩飯の支度はやってくれるようだな。それなら4時から少し自由時間が増えるので楽になる。ほとんど気にした事もない毎日のちょっとした事だが、ひとつひとつ意識して客観的にみていくと、そこにはいろいろな感情があり、わしの中に何かを残しながら、過ぎ去っていくんだろうなと思うよ。

 さあ、今日も終わった。