無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10886日

 わしにとって自分の宗教とは死への準備という位置づけだったから、残りの人生、経済的に自由になったらこれだけで1日終わってもいいように考えていた。他の事は雑用で、なるべく時間をとらないようにという考えだったが、自分の宗教とはいえ、やってみると、1日中それに集中している訳にもいかないということはよくわかった。人生の最後に向かって流れていっているのはなにも頭だけではない。体、衣食住を含めた周囲との関係、係累とのつながり、社会とのしがらみも含めて全部が一緒になって死へと流れて行っているんじゃないか。そう思うようになったね。そうなると今まで雑用だがやらなければならないと思っていたことにも、それぞれに価値があることになり、それがわしにとっての道というものにつながったような気がするな。

 何かの本で、昭和天皇が、皇居の雑草を抜くという言葉を聞かれて、植物には雑草という草は無い、全部に名前があるんだよと正されたという話を読んだ事がある。昭和天皇の言われた事は、命あるものは死へ向かって歩いて行かなくてはならないが、一瞬一瞬すべて大切で、雑用などというものは存在しないのだ、という意味も含んでいるのではないかと、わしなりに解釈している。昭和天皇の偉大さを思い知ったよ。