無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10884日

 よく、家で何をやっとるの?とかやる事無いので退屈だろうとか言われる。趣味でもなければ家でやることなんか無いだろうとみんな考えるようだが、そこには、家事という、生活を維持してゆくための基本的な活動は雑用だという感覚が働いているんだろうな。家事だけではない。洗顔排便排尿も、犬と遊ぶのも、古事記を読むのも、ぼうっと城を眺めているのも、7000歩あるくのも今この瞬間にしかできない、そしてこの瞬間は2度とやってこない大切な時間なんだが、これらを雑用というなら、本来の用とは一体なんなんだろうね。少なくとも時間を売って金を稼ぐ事じゃないだろうな。

 まあ、こんなことばかり考えていたら、おそらく社会生活は困難になるし、社会的な出世には邪魔になるだろう。家族を養い、親をみて、周りを幸せにして責任をはたすことは、人として大切な事で、そのためにはそういう疑問は封印しなければやっていけないのも真実だ。わしもそうしてきた。宗教上の子弟の関係は親子より重要だという人もいたが、わしはそれには賛同できなかったな。

 自分のやりたいように生きようと思ったらまず自立する事。自由はそれからだと、わしはそう決めて24歳から40年生きて来た。もちろんつまらん凡人故の紆余曲折はあったが、常に頭から離れる事はなかった。やっとそれを手に入れてから今日で67日間、わしは自分のためだけに生きて来た。朝起きるのも自分のため、女房と2人分の飯を作るのも自分のため、歩くのも自分のため、掃除するのも自分のため、食器を洗うのも自分のため、寝るのもじぶんのため、それらの行為を自分のためと意識することによって、行為の価値を均質化し、自分の時間軸に組み込んで行くことによって、今生きているということを確認し、時間が流れていることを実感できるのではないかと考えている。

 毎日が死への準備だと思えば、一瞬一瞬、あだやおろそかにはできない。