無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10877日

 わしは昭和48年の夏にUFOを見たことがある。晴海埠頭から銀座まで歩いた時に見たんだが、その瞬間のことは今でもはっきり覚えている。おそらく瞬間に近い時間だと思う。オレンジ色に光る物体が8個、縦1列から2列に位置を変えながら雲の中に飛び去って行った。当時から誰も信じないが、わしは視力2.0だった自分の目を信じている。

 だからどうしたといえばそれだけの話なんだが、見たからといって人間が賢くなるわけでもないし、新しい能力が目覚めるわけでもない。ツチノコを見つけた話でもしたほうがよっぽどインパクトが強いだろう。ただ、わしがUFOを見た事を笑う人もいたが、そういう人は自分で理解できないことに出会うと、迷信だとか、妄想だとかすぐに否定したがる人達だ。本来、わからないんだから肯定も否定もないはずであって、それは単に自分が知らないだけかもしれないという謙虚さがないんだな。少しでも賢くになりたいと思ったら、とにかく謙虚にひとの話をよく聞く事だとわしは思う。それができるかできないかでその後の生き方がかわってくるとさえ思えるくらいだ。

 まあそこまで頭ではわかっているんだが、実際問題として最初のUFOの話だが、もしわしがこの話をされたとしたら、その時、これはわしが知らないだけかもしれない、本当はぶんぶん飛び回っているのかもしれないと、否定も肯定もせずに黙って聞けるかといえば、これはけっこう骨がおれることは間違いない。必ず否定的な何かを言わずにおれないだろうな。

 当たり前のことだが、頭でわかることと、実行できることとは違う。その差はとてつもなく大きいが、その差を少しでも縮めていくことができたら、それだけでその日1日を生きた甲斐があったといえるんじゃないかと思う。

 わし、64歳7ヶ月、理想の自分に近づけるよう、あと10877日、精進の日々だな。