無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10859日

 娘が出産後、赤ちゃんと一緒にうちに帰ってきているので、今までのようにはいかなくなった。4月1日から毎日繰り返してきた掃除、飯炊きの道を極め、太陽参拝、祝詞奏上、7000歩の歩行という生活を維持することができなくなってきた。わしはこれではいかんと思い、どうしたらいいか考えたんだが、結局娘が自分の家に帰れるようになるまで完璧に続けるのは不可能だという結論に達したんだな。それならそれでいいんだが、問題は、すでにわしの中にできあがっている、完璧を求める心をどう処理するかということだ。おそらく大騒ぎするだろう。それをなだめるためには、納得できる理由が必要になるだろうな。やっかいなことだ。

 しかしよく考えてみると、このやらなければいけないという感情、心、これは何事にもあまりとらわれずに、いることもいらないことも、どんどん捨てていこうという、わしの生き様にはふさわしくないような気もするな。一方で完璧にやり通す事にこだわり、一方で何事にもとらわれてはいけないと考えることは、明らかに矛盾しているんだが、人の意識なんぞ混沌としていて一つの意識の流れが独立して流れている訳ではない。

 わしは昔、枕元にノートと鉛筆を置いて、夢をみたら起きると念じて寝ていたことがあった。目が覚めたらすぐにノートに夢の内容を書いていくんだが、これはしんどかったな。朝起きて読もうと思っても読めないような走り書きだし、その内容たるや支離滅裂で、まとまった内容なんぞ何処にも無い、昼間読んだら、気が狂ったのかと思うような内容だったよ。これが揺れ動く意識の本質ではないかと思ったね。怖くなってすぐに止めたけどな。

  結局大騒ぎする心、マインドとでもいうか、これは人間誰でも持っているもので、これは相手にしないでほおっておくしかおさめる方法がないんだよな。そのためにはそれにとらわれてはいけない。とらわれないためには集中して何かを行う。つまり完璧に成し遂げようとする強い意志によって実現されると思うんだが、結局ここらで話は堂々巡りになって結論はないということになってしまうんだな。

 考えてもしようがない。とにかく、面倒くさい事言わずに、何も考えず、一ヶ月間すべてを簡易バージョンにかえて手を抜きながら無理のないように、楽しくすごすのが一番いいというのが結論だな。できる範囲で気楽にやろう。