無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10857日

 4月から今の生活が始まって3ヶ月がたった。その間を振り返ってみても、考え方や意識の持ち方などいろいろ揺れ動いているのがよくわかった。特に、今日はしんどいので掃除は少し容赦してやろうとか、暑いんでちょっと休もうかとか、古事記はきょうは勘弁してやろうとか、とにかく自分を甘やかす誘惑が多いのには参ってしまう。うかうかとそれに乗せられそうになるわしも情けないんだがな。また出産後娘がうちに帰って来ていて、以前のように時間が自由にならなくなったなどとふざけた泣き言をいって、それを理由にして楽な方向にもっていこうとするわしもいるんだが、これも情けない。

 しかし、世の中の大きな流れは、わしが仕事をやめようが、掃除をしようが、飯を炊こうが、古事記を読もうが、7000歩あるこうが歩くまいが、情けないと感じようが感じまいが、そんなことは歯牙にもかけないし、勿論何の影響も受けないどころか、ちょっと何かがあればわしなんぞは吹っ飛ばされてしまうちっぽけな存在なんだろうな。それを知るからこそ、わしは自分の世界にはいって自分の中に波風をたてないようにしてきたんだが、それでは所詮箱庭のようなものかもしれんな。外から簡単に壊されてしまうようなものでは確固たる足場とはならない。一つの型に自分を縛り付けるのも考えものかなと思うときもある。逆に一つの型をもち、それをやり遂げる事で見えてくる者もあるかもしれない。いろいろあるが、とにかく11月3日までは今のまま続けて、その後の事はそれから考えよう。