無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10856日

 昨日、先日生まれた娘夫婦の赤ちゃんのお七夜をしたんだが、その場の話の中で、むこうのお母さんが市の清掃の歴史を調べているが、現在清掃部門にいる人、誰に聞いても昭和20〜30年代にどのような方法で収集していたか知らないので困っているという話を聞いた。そりゃそうだろうな。今の現役職員最年長が生まれた頃の話なので知る訳ないよな。ではもっと年上で80歳の人なら知っているだろうと考えるかもしれないが、残念ながらその人たちのほとんどは、すでに忘れているんだよな。

 そこでわしは3歳くらいからのことを結構覚えているよというと、まず、次の3点を質問された。(1)ゴミ収集の形態は(2)各家庭はゴミをどのようにだしていたのか(3)清掃員の道具はなにかということだった。わしの記憶というものは、当時見たイメージが自然と頭に浮かんでくるもので、まず浮かんだのがゴミ箱だ。リンゴ箱のような物。次にセメントで出来た物。清掃員は竹で編んだかごを片方の肩に掛けるようにして持ち歩いていた。これが浮かんで来たな。セメントでできた物は昭和35〜6年頃に市がまとめて注文して各家庭が購入したもので、愛○セメントと今○セメントの2社が製造していた。2社の製品はそれぞれ見たらすぐわかる特徴があった。多分ここまで覚えている人はまずいないだろうな。更に言えば、セメント製のゴミ箱になるまでは、各家庭で作った箱が家の前に置かれてあり、清掃員はその中のゴミを自分の竹かごに移してオート三輪まで運んでいたんだが、うちの前にはリンゴ箱が置いてあったな。

 ついでに便所の汲取についても、天秤棒で糞尿の入った桶をかついで、それをオート三輪の荷台に作り付けた木の箱に移し替えていたことや、うちの前でその糞尿満載の三輪とパン屋の三輪が接触して糞尿が飛び散った話などしてあげたが、バキュームカーしか知らない世代には結構インパクトがあるようだな。

 昔から、つまらん事ばっかり、いつまででも覚えてとって、しょうがないやつじゃな。と言われ続けてきたが、さすがに64歳になるとたまには役にたつこともあるもんだ。