無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10852日

 わしが10代の頃に防大生だった兄から、昭和17年に高知の連隊がニューギニアのオーエンスタンレー山脈を越えたことがある、という話を聞いたことがあった。オーエンスタンレー山脈といってもピンとこないが、標高3000メートルを超える人跡未踏の地らしい。なぜこの話を覚えているかというと、わしのおふくろの兄、わしにとっては伯父にあたる人だが、この人が西部ニューギニアで戦死していたのと、隣の県の連隊の話というのがあったんだろうな。

 高知の連隊とは正確に言えば高知連隊を主力として編成された南海支隊だが、最期は補給もなく、支隊長も行方不明となり解散、自活という悲惨なめにあったんだな。いろいろ調べてみると、上層部はできないことも承知の上で命令しているんだな。軍隊の不条理というのはよく言われるが、大東亜戦争初期のことなので、その後あまり語られることも無い戦いではあった。しかし、現地部隊は、トラックが走る道路ができない以上補給が続かないという理由を、論理的に説明していることが記録に残っているのが興味深い。それでもいけといわれたら行かざるを得ないのが軍隊だろう。

 7~8年前になるが、とある病院の待合室で呼ばれるのを待っていると、2列ほど後ろの席での会話が聞こえてきた。「どちらでした?」「朝倉でした。」という会話だ。朝倉といえば高知連隊のあったところなのでわしも聞き耳を立てたが、どうも南海支隊関係者ではなく、その後入営した人のようだった。少し話を聞きたいような気もしたが、 わしの名前が呼ばれたのでそれっきりになってしまった。

 わしの伯父は戦死の状況についてはよくわからないんだな。サルミ付近で戦死ということしかわらない。パラオからホーランジアに上陸後すぐにアメリカ軍の攻撃が始まったので西へ逃げていったんだろう。この伯父はパラオで病気になり、内地へ向かう最後の飛行機便に乗ることになっていたんだが、部下と交代してあげたらしい。戦後その話を生存者から聞いて伯母は「馬鹿なことを、帰ってくればええのに」と言ったということをおふくろから聞いたことがある。ジャワ天国、ビルマ地獄、生きて帰れぬニューギニアと言われていたんだから、既に死ぬことは覚悟していたんだろうな。

8月が近づくといろいろ思い出すな。