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無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10851日

 最近、貧困という言葉を新聞などでよく見かけるが、なにか作為的な物を感じるのはわしだけではないだろう。少なくともわしの周りに、その日の食い物が無いという人は誰もいない。金がなくて高校に行けないという人もいない。病気になっても医者に見てもらえないという人もいない。本当に食べる物がないなら、生活保護をうける手段もあるし、保護を受ければ医療費はかからない。いったい新聞でいうところに貧困とはどのような人をさしているのか、何を配慮せよいっているのかわしにはわからんな。

 わしが小学校に入学したのは昭和33年だが、わしの周辺に子供はたくさんいたが、学校にいかなった子供は誰もいなかった。昼飯は家に食べに帰っていたが、弁当を持ってこられない子供に配慮していたのかもしれない。確かにそういう家庭の子もいたのは事実だが、それを貧困などと感じた事は一度も無かった。それよりも、現代における貧しさを貧困と呼ぶならば、当時の子供はわしも含めて、全員超貧困階級と呼ぶのがふさわしいだろうな。

 15の春を泣かせないとか戯言を言い出したのはわしが中学生の頃だったかな。高校入試が一発勝負では、普段頑張っているが、たまたま試験の日に調子が悪かった子供が評価されないので、普段の内申点を重視しようということだったな。こう聞くといいことのように聞こえるかもしれないが、これは聖人君子のような教師と、生徒とその親がいてはじめてなりたつことだというのは、既にその後の事実が証明している。選抜試験であるからには、尺度を同じにしなければ、どうやって優劣の判断ができるのか、わかる人がいたら教えてほしいよ。むかしは運も実力のうちといわれたもんだが。

 安易な方にレールを敷く事によって、生存能力や競争力を削いでゆくことが、本当に個人や社会の発展にプラスになるのかのう。

 

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