わしの親父は昭和13年に農学校を卒業して朝鮮に渡り、営林署森林主事をしとったらしい。判任官の官吏だな。当時は国策として朝鮮半島北部の禿げ山に木を植えていた。なぜ禿げ山になったかというと、火田民が焼き畑農業をしたからだが、森林に火をつけて焼き払いその跡地を耕作し、収量が落ちるとまた次の森林を焼いて跡地を耕作するということをやっているんだから禿げ山になるのは当たり前だ。それをやめさせて、定住を促進し、その禿げ山に数百万本の苗木を植えていったのが朝鮮総督府で、その実行部隊が営林署なわけだ。1人で日本の小さな県と同じくらいの面積を担当し、朝鮮人の人夫を使い、南京虫に食われながら植林したそうだ。生前、今は立派な木に成長しているはずだから一度見に行ってみたいと話していたな。
戦後続いていた朝鮮営林の会という団体も人がいなくなり、かなり前に解散しているし、こんな話を直接知っている人ももういないんだろうな。日本人が朝鮮の山の木を切り尽くしたなどと戯言をいう奴らの頭を勝ち割って中をみてみたいよ、まったく。あの李承晩でさえ、植林事業に関しては日本に感謝していたんだからな。終戦後はアーノルド少将のサイン入りの復員許可証をもらって無事帰国できたんだが、これも偶然で、招集されて釜山にいたから助かったのであって、あのまま北の咸興にいたら、咸興は真っ先にソ連軍が上陸して警察所長が殺されたくらいだから、命はなかっただろうな。
親父の好きだった歌が、霧島昇の誰か故郷を思わざるとか、田端義男の帰り船とかだったが、なんとなくわかるような気がするよ。死ぬ前にわしのスマホで帰り船を聞かせてやったらうれしそうな顔をしていたな。予定通りならわしもあと10849日で親父と同じところにゆくことになるはずだ。昨夜女房が初めて親父の夢をみたらしいが、元気そうにしていたらしいから、いずれあの世で会うこともあるかもしれんな。