無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10845日

 あと19876日のブログで、同窓会での不思議な偶然について書いたことがあるが、ほとんど人に話した事の無い不思議な偶然があと2つあるんだな。まったく何の接点も無い3人の人間が、わしという存在をとおすことによって一つの話に繫がるという摩訶不思議な話だ。

 わしのいた学校はその当時すでに創立70周年というけっこう歴史のある学校で、多くの外国航路の士官を輩出していた。大東亜戦争中は、徴用船で軍属として亡くなられた方も多かった。わしらに材料工学を教えていたH氏も戦前の卒業生のひとりだが、この人は幸運にも生き残った。そして授業中ときどき戦争中の話をしてくれて、わしらもそれを楽しみにしていた。

 あれは昭和46年の夏頃のことだったな。材料工学の授業中、H教官が体験を話し始めた。まさにこれが本当の戦争体験者の話だ。昭和16年開戦直後、H教官が三等機関士で乗船していた貨物船がパラオからマニラに向けて海軍の部隊を輸送していた。空も晴れていたが少し雲があった。H三等機関士も甲板で上空を監視していると、爆撃機が2機悠然と飛んでいるのが見えた。護衛の船が高角砲を撃ったらあわてて飛び去っていった。みんながこれでほっとしていると、なんとシュという音がして、爆弾が落ちて来たんだと。やつら逃げるときに爆弾を落としていったようだ。それがうまく命中したんだな。H機関士もこれはいかんと伏せて死を覚悟したが、まったく何もおこらない。不思議に思って現場にいくと、頑丈な竜骨が歪んでいただけであとはなんの損害もなかった。つまり爆弾が不発で、竜骨のあたって跳ね返って海に落ちたものらしい。不発でも船倉に落ちていたら被害がでただろうから、本当にラッキーだったと話していた。

 それから2年後の昭和48年6月、わしが乗船する前に千葉にいた元海軍兵曹長の伯父の家に泊めてもらったことがあった。この伯父は開戦から終戦迄最前線で戦い、3度泳いだ事もあるという強者だった。しかも戦争中何月何日何処で何をしたということをすべて暗記していた。晩飯の時、おそらくわしが開戦の時何をしていたか聞いたんだろう。その伯父が「戦争が始まった時、わしらを乗せた貨物船はパラオからマニラに向かって航海していた。」という話をしだした。パラオからマニラと聞いて、わしはH教官から聞いた話を思いだしたんだな。まさかとは思いながら聞いていると、なんと爆弾が落ちて来た話をしだした。それが不発弾で被害が無かったときたから、これは間違いないと思い、H教官のことを伯父に話すと、あのときの乗組員が教官をしているのかと感慨深げだったな。二人とも既に亡くなっているが、伯父とH教官が大東亜戦争開戦時、命をかけて1つの船に乗り合わせていたとはほんとうに驚いたよ。

もう1人の伯父とH教官との不思議な偶然話は明日にしよう。