無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10844日

 あと10845日の続きだが、不思議な偶然は父方の伯父とH教官との間にも起きていた。この伯父は地元の気象台に勤めていたんだが、何年間か中央気象台にいくことになった。ちょうどいい機会だと思って、歴史が好きだったので日大の夜学に入り、さあ勉強しようとしていた矢先に招集されてしまった。そしてその後終戦まで陸軍の軍属として気象観測をするようになった。

 さてその経緯だが、H教官の話を聞いたのはやはり材料工学の授業中だったので昭和46年だな。終戦間近の昭和20年、H機関士の船が千島列島最北の占守島付近の岩場に座礁してしまった。いろいろ試みたがどうしても離礁できない。これは大潮まで待たなければだめだということになり、ひと月ほど冬ごもりになったらしい。ひどい吹雪だがボイラーも炊けたし、食料も十分あるのでなんとかなるだろうとそれほど心配はしてなかった。付近には人家はないが、陸軍の小さな気象観測隊が駐屯していた。

 ある吹雪の夜にその陸軍部隊から何人かが苦労して船までやってきて、観測所にはもう食料が無いので少し分けてもらえないだろうかと頼まれた。陸軍には十分な食料もなかったんだな。もちろん船長は快く分けてあげた。その後、船は離礁に成功し無事内地に帰還できたそうだが、H教官はあの人たちはその後どうなったか、無事に帰還できたのか気にしていたな。

 わしが東京から人事異動でこちらに帰ってきたのが昭和58年で、これはおそらくその頃のことだろうと思うんだが、夏の暑い夕方、何かの用で伯父の家を尋ねたんだな。この伯父は話好きで、なかなか帰してもらえない。その日も薄暗くなっても電気を点けるのもわすれて昔話をしていた。軍刀を売ってライカのカメラを買ったことや、気象観測なんか全く当たらなかったこと、最後は占守島にいたこと、もう1便あとの引き揚げ船が潜水艦に沈められたこと等、次から次へと話は続いたが、わしは占守島と聞いて、H教官の話を思い出したんだな。この時もまさかとは思いつつも、話を聞いていると、占守島で陸軍は食料が不足していたが海軍は豊富にあったことや、食料を船にもらいにいったこと、その船は近くの海岸に座礁していた事が話にでてきた。わしはこれは間違いないと思ったので、H教官の話をしたら、あの船の乗組員だった人がお前の学校の先生をしているのかとびっくりしていたな。

 母方の海軍の伯父と父方の陸軍気象隊の伯父、母方の陸軍の伯父は戦死しているのでわしには伯父はこの二人しかいなかった。その二人の伯父がわしの学校のH教官と戦争中に出会っているし、ひょっとしたら直接話をしたかもしれない。これは確率的にはゼロに等しいんじゃないだろうかな。その後H教官にお会いする事もなかったのでこの話をすることはできなかった。もし話していたら「そうか、きみの伯父さんがあそこにいたのか。」と懐かしんだだろうな。