無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10830日

 時々思うんだが、今日は充実した一日だったとか、有意義な一日だったとか感じる事があるが、わしがのようにテレビも見ないし、ラジオも聞かない、ネットは見るので社会とのつながりは、かろうじて保たれているが、ほとんど家の中で生活している人間が、そのように感じるという事は、周りから見ると、単なる自己満足だと思うんじゃないかな。しかしそれはちょっと違うんだな。これは揺るがないんだな

 わしは4月1日から、世間とのつながりがほとんど無くなり、女房はいるが、ほぼ自分だけの世界で生きている。そうすると逆に社会の中にどっぷり浸かっている人間をみると、彼らにとっての充実感とは、今いる社会によって左右される、つまり、そのほとんどの部分は社会の評価に寄って成り立っていて、充実感として自己完結できてないのじゃないかなと思うんだな。これは揺らぐんじゃないかな。

 このあいだ聞いたんだが、県庁や市役所でも心療内科を受診している人が結構多いらしい。心療内科を標榜する病院も増えているということは、それだけの需要があるんだろうな。わしも覚えがあるが、昼間は社会にどっぷり浸かっていても夜になり、ひとりになった時にその充実感が揺らいできたり、夜ふと目覚めたときに昼間の自信は何処へやら、弱い自分に驚いてみたり、そういうことがあったな。その頃に作った俳句だ。「ふと目覚む、ひとり住まいに秋満てり」 なんか暗いだろう。

 揺らぐか、揺るがないか。自己完結するかしないか。微妙な問題だが、大きな問題だな。