無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10820日

 わしはほとんど見てないが、今オリンピックが真っ最中のようだ。そのリオデジャネイロといえばわしは1973年に訪れたことがあるんだな。練習船の実習生として、バルボア、リオ、ポートオブスペイン、アカプルコ、ホノルルに行ったんだが、わしらの期待はやはりリオだったな。もう一隻の練習船は世界一周したんだが、わしらの船が、あの南米のリオに行くということがわかると、世界一周する奴らがうらやましいなんて気持ちは吹っ飛んだね。それからは明けても暮れてもリオ、リオで、コパカバーナやイパネマの海岸でサンバを踊るおねーちゃんの話や様々な妄想で盛り上がったもんだんだったな。若いということはそれだけですばらしいことよ。

 その当時、リオにはそれくらい若者を引き付けるものがあったんだな。遥か向こうに小さく、コパカバーナの海岸や、あの砂糖パンの山が見えたときの感激は今だに忘れられない。そして、砂糖パンの山の横をすり抜けるように、船は岸壁に接岸した。わしらはブラジルといえばコーヒーだろうと、ゲートを出てすぐの所にあった、小さなレストランのようなところに入ってんだが、向こうは英語が全くできないので、言葉が通じないんだな。コーヒーを頼もうといろいろ試みたが、わかったのはコーヒー1杯だけ頼むという習慣はブラジルには無いらしいということだった。それで、これはあきらめて、のどが乾いたので水を頼もうと思ったんだがwaterでは通じない。わしも別に英語がそんなにできる訳ではなかったが、言葉が全く通じないという経験は後にも先にもリオだけだったな。

 そんなリオでも町中で珍しく英語で話しかけてくるやつがいたんだが、そいつは詐欺師だったな。わしらも白い制服を着ていたからだろうが、自分はブラジル空軍の士官だとか、うまいこといってしつこくついて来るんだな。結局わしらもころっと騙されて、晩飯を奢ってしまったから、良いかもだったんだろう。今はそうでもないんだろうが、わしらの頃は、現地人で日本語で話しかけてくるやつには碌なやつはいないので、相手にするなと言われていた。それの英語版だったわけだな。

 リオについては詐欺師のことも含めて楽しい思い出は尽きないが、今のリオはひどいみたいだな。現実を知るよりも、思い出の中にしまっとく方がいいようだ。わしが変ったのか、リオが変ったのか、まあその両方だろう。よくあることだな。