無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10799日

 昭和26年以来、統計史上初めて東北地方に太平洋から上陸した台風10号だが、午後6時過ぎに大船渡付近に上陸した。大船渡はわしには縁のある町なので、被害が少なければいいんだが。最近は護岸工事がすすんでいるので昔のように高潮で大きな被害がでるということはなくなったな。昔から、台風で一番被害が大きかったのは高潮だと言われていたからな。

 伊勢湾台風のときもそうだった。じつはほとんどの人は忘れてしまっただろうが、伊勢湾台風は最初は四国に上陸すると予想されていた。わしが小学校2年生だったが、大きな台風が来ているということで、午後から休校になって家に帰ったぞ。子供だからわくわくしながら来るのを待っていたんだが、たいしたことはなかってがっかりしたことを覚えている。情報収集は新聞とラジオだけで、今のように次から次へと映像が流されることもないから、一般家庭なんぞ蚊帳の外だったな。翌日になって名古屋の方に行ったことを知ったくらいだ。

 高潮が発生して大きな被害がでたこともだんだんわかってきて、救援物資の供出なんかも始まった。おふくろもわしら兄弟の服なんかを選んで箱に詰めていたな。その中の一枚に熊のピンバッジがついていたんだが、兄貴がこれはだめだと言ってはずしてしまった。おふくろは、そんなバッジでもついとったら、被害にあった子が喜ぶのにと、付けておくように言ったが、兄貴はきかなかった。ものにはあまり執着しない男なんだが、これは珍しかったな。

 今度台風10号が上陸した大船渡は21歳の時に練習船北斗丸で寄港し、当時の小野田セメントのグラウンドを借りて各部対抗ソフトボール大会をやった。この船はよく揺れる船で、花魁踊りと呼ばれていたな。わしは航海のたびに吐いていたので、この船にあまり良い思い出はないんだな。

 わしが船乗りになってはじめて乗った社船が三朝丸という5000トンほどの重量物運搬船だったが、同乗していた2等機関士が昭和35年のチリ地震津波の経験者だった。ちょうど大船渡に停泊していて、津波が来るというので湾外に逃げようとしたが、エンジンをフルにしてもなかなか前に進まなかったと話していた。

 そんなわけで大船渡は、わしにとってなんとなく気になる町ではあるんだな。