無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10786日

 わしのおふくろのじいさん、つまりわしにとってはひいじいさんだが、日露戦争のとき、乃木大将の第3軍で旅順要塞の東鶏冠山を攻略した、あの桜井忠温の「肉弾」で有名な善通寺第11師団松山第22連隊の兵士だった。子供の時におふくろがアルバムにあった古い写真を指差して、これがわしら兄弟のひいじいちゃんよと教えてくれたことがあったな。11師団は強かったんよと言っていたが、今から思えば、おそらく日露戦争のときのことなんだろう。きっとおふくろもじいさんの膝に抱かれて、旅順攻略や乃木大将の話を聞かされたんだろうな。わしは子供だったので日露戦争といわれてもよくわからなかったが、昭和30年代の家庭ではこんな日常会話がなされていたんだな。

 昔わしの家の玄関先に「遺族の家」という、薄っぺらい金属でできた札が貼られていた。わしは何のことかわからなかったんだが、ある日通りがかりの人に、「お宅はどなたかが戦争で亡くなられたの?」と聞かれたことがあった。わしは何のことかわからなかったのは覚えているが、なんと答えたかは忘れたな。たぶんおふくろにも話したはずだ。この札がいつまで貼られてあったかは不明だが、いつのまにか無くなっていたということは、この頃におやじがはずしたのかもしれんな。というのもこれは、この家に以前住んでいた、おふくろの姉つまり伯母さんの家庭に配られたもので、引っ越しの時にはずし忘れたものだったようだ。戦争で家族を亡くした家にはこの札が配られたんだろうな。

 伯母一家は満洲からの引揚者で、伯父はシベリアに抑留されていたから、伯母さんが3人の子供を連れて、さんざん苦労してソ満国境のチャムスから引き上げてきたらしい。しかし、せっかく日本に帰ってきたのに、舞鶴で長男、二男を病気で亡くし、長女と二人で帰ってきたそうだ。家に帰って来た時は乞食みたいな格好だったと従兄弟から聞いたことがあるな。この話を聞いた時は、あの弱々しい伯母さんのどこにそんな力があるのか不思議に思ったな。

 当事者もみんな亡くなって、こんなことも既に歴史の一コマになってしまったのかもしれんが、それならそれで、今になって平和学とか、わけのわからん集まりで、ろくに知りもせんのに、やれしんどかった、やれ苦しかった、戦争反対などと叫んでいる、単なる戦災体験者なんかの話をありがたがって聞くより、その親の世代の話を正確に残しておく方が重要なんじゃないかと思うんだがな。