無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10762日

 今日から地方祭なんで、さっき空の子供神輿がうちの前を通って行った。あした早朝宮出しということになるんだろう。わしの家には該当する子供が居ないので、組長でもやらない限り、祭りにタッチすることはないんだが、それでも家の前を通るとなんかうきうきして来る。この町内も老人ばかりで、わしの組内ではわしが若手なんだから困ったもんだ。

 60年近く前、この辺りにもたくさん子供が居て、祭りの一週間くらい前から空神輿をかいて町内を回っていた。神輿の周りにはいつも30人位はいただろう。わしなんか小さかったので、おまえらは肩が合わんといって、かかせてもらえなかった。近所の竹屋に神輿が置いてあったんだが、夕方晩飯を食って、時間になると竹屋の前は子供でごった返していた。わしは提灯もって後ろからついていくだけだが、兄貴は時々かかせてもらっていた。

 今と違ってどこも真っ暗で、提灯しか灯りがないんだから、他のまちの神輿と出会うときなんか、ほんとに神秘的だった。遠くの方にぼうっと灯りの固まりが見えて、それがだんだん近づいてくるとともに、遠くの方にわっしょいという声が聞こえて来る。今のように笛や太鼓など何も無い、人の声だけだ。すれ違うと、また闇の中に消えて行った。

 しかし、わしもそんなに多く神輿を体験したわけではなかった。というのも小さい頃は小児喘息で、祭りの季節である10月は、ちょうど気候の変わり目となり、発作が出やすい時期だった。それに昔はもっと寒かったような気がする。神輿について回るとあんぱんを2個もらえた。わしが行けなかったときは、兄貴が家に持って帰って、1つをわしに分けてくれたこともあった。あんぱんなんか滅多に食べられなかったから、これは嬉しかった。

 この町の子供神輿はわしが小学校一年のときできたもので、それまでは無かった。隣の町には既に子供神輿があるのに、この町の子供が神輿をかけないのはかわいそうだという意見が出て、町のみんなが寄付をして、今の立派な神輿ができたらしい。10年程前になるが、近所にある「たごり大明神」という小さな祠のお祭りの世話をしたとき、昔、子供神輿を作ったときの、寄付金の額を墨書した板を貼付けてあるのに気が付いた。見ると親父の名前が結構大きな字で前の方に書かれていた。金額は忘れたが、商売人でもないのに多いなと思ったので、家に帰って親父に聞いてみたところ、寄付のことはよく覚えていて、「ほう、そんなんがあったか、あのときは金は無かったが、お前等兄弟も世話になるんで奮発したんだ。」と笑っていたな。

 こうやって思い返してみると、いろんな人に助けられたり、守られたりしながら大きくなったということの有り難さが身にしみてくる