無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10760日 嘘のない生き方とは

 このブログはあと10918日から始まり、今日であと10760日となった。158日寿命が縮まったわけだが、特に何かをやったとか、感じたとか、そんなものは何も無い。結果からみれば、ただ淡々と命の日々が消化されたということにしかならない。これから先もおそらくこんなもんなんだろう。

 結局人生に何を求めるかということなんだろうが、例えば親に孝行をするというのも、自己満足を満たすかもしれないが、その親はわしには既に居ない。立身出世して金持ちになりたいというのもよくある若者の夢だろうが、わしにとってはすでに終わったはなしだ。

結局それが実現しようがしまいが、自分の外に何かを求めても、それが生き甲斐になり続けることはない。さらにそれを求め続けるということは、自分に対して嘘をつき続けるということになるんじゃないのかな。

 わしは自分が嘘つきだということをよく知っている。わしがいつそれに気が付いたのか、はっきり覚えてないが、おそらく20代の前半くらいだろうと思う。生きるのはしんどいことだと感じ始めた頃だ。

「内から見た自分」と「外から見た自分」とでもいったらいいのか、この2者は明らかに別のものだということに気が付いた。つまり、わしの嘘つきというのは「内からみた自分」が、「外から見た自分」が嘘をついているということに気が付いているということだ。

わしにとって「内から見た自分」の存在に気が付いた後の人生は、ただ単に楽しいとか、うれしいとか、希望に満ちているとか、浮き浮きした気持ちは消え去り、何をやっても、心から熱中できなくなった。

 「内から見た自分」が、「外から見た自分」が嘘をついているというふうに感じなくなったとき、わしの求めている心の平安とか、安心とかいうものがやって来るのかもしれない。命の日々を淡々と消化していくのがほんとうに楽しいと思える日がやってくるのかもしれない。宗教の存在というのも本来そういうところにあるんじゃないのかな。あと30年、刹那的な生き甲斐ではなく、嘘をつかない正直な自分を実現するためにはどうあるべきか。残された時間は短い。