無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10758日 敵ラシキモノ10隻ミユ

 以前わしは大東亜戦争史を語る会というホームページを立ち上げていたことがあるんだが、コンテンツが続かなくなり尻すぼみになって終了したことがあった。コンテンツを次から次へと1人で揃えるのは至難の技だったな。結局東部ニューギニアとミッドウェーとレイテ、ビルマを少しで終わってしまった。ミッドウェー海戦については利根4号機の謎についてちょっと面白い結論を導きだしている。本文と海戦地図を見比べながら見て行くとわかりやすい。マニアックになるが、以下引用する。

 

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利根4号機の謎

 第一次攻撃隊発進直後に索敵機が東北海面に5線、南西海面に2線に別れて発進した。ミッドウェー島を挟んで北寄りから東寄りへ7線の索敵線が引かれた。
 

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榛名   (31度、進出距離150浬、測程左へ40度)

筑摩4号機(54度進出距離300浬、測程60浬)
筑摩1号機(77度、進出距離300浬、測程60浬)
利根4号機(100度、進出距離300浬、測程60浬)
利根1号機(123度進出距離300浬、測程60浬)

ミッドウェー島を挟んで

加賀   (158度進出距離300浬、測程60浬)
赤城   (180度進出距離300浬、測程60浬)

 

海戦地図

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 筑摩1号機、利根4号機は最も敵機動部隊発見の可能性の高い海域を飛ぶ予定であった。しかしカタパルトの故障(といわれている)のため、利根4号機は約30分遅れて0200発進した。そして2時間28分後にこの海戦の帰趨を決定づけたともいえる有名なあの電文をおくってきたのである。「敵ラシキモノ10隻ミユ、ミッドウェーヨリノ方位10度、距離240浬、針路150度、速力20節以上」しかしその位置は全くのでたらめであった。どうしてそうなったのか、このときの乗員3名は終戦を待たず戦死しているので今となっては確認のしようはない。この位置を地図上に書き込んでみると、そこは利根4号機の索敵範囲ではなく、筑摩1号機の索敵線に近い。

 位置を間違える原因としてまず考えられるのはコンパスの故障あるいは磁気偏差の修正ミスであるが、当時の重巡利根の飛行長であった武田春雄氏はそんな不完全な飛行機を飛ばすことはないと否定している。そのことはこの利根4号機がきちんと帰艦したという事実がそれを証明していると思う。狂ったコンパスで、常に移動している洋上の一点にたどり着くことは不可能だろう。

 元海上自衛隊パイロットのY氏は次のように話している。

「コンパスが10度どちらかに狂っているとすると、200浬飛んだら35浬の誤差が出る。だいたい一度狂った状態で60浬飛んだら1浬狂うことになる。地上だと目標があるから狂いはわかるが、洋上ではわからない。磁気コンパスで精密航法は無理だから何の電波も出してない艦に帰るというのは奇跡かまぐれだな。そもそも母艦から何時間も飛んで、空中戦やって、また何時間も洋上を飛んで艦(この艦自体も発進させた後、敵機に攻撃されれば回避のため予定外の行動をすることもあるし、位置秘匿のため当然電波は発信しない)にたどり着くこと自体が奇跡みたいなものよ。」

 しかし、作家の豊田穣氏はコンパスが10°ずれていたと主張している。元艦爆乗りとしての氏の意見は傾聴にあたいするが、今回時系列表に沿って位置を記入していってみると、利根4号機のコンパスが南に10°ずれていようがずれていまいが、どちらの索敵線を飛んでいたとしても敵艦隊との接点は見いだせないのである。コンパスのずれについては元第八戦隊首席参謀で当時利根艦上にあった土井美二氏は4号機遅発の原因はカタパルトの故障ではなく、コンパスの修正に時間がかかったためと話しているそうである。元飛行長武田春雄氏とは意見を異にしている。

 防衛庁防衛研究所戦史室に勤務し、公刊戦記を書いた角田求士氏は利根4号機は決められたコースは飛んだが、索敵線の先端、つまり300浬まで飛ばないで途中で引き返したのではないかと主張している。ただ引き返したのではなく、測程に入り北にコースを変えて、それなりに逆三角形の形を作りつつ帰途についたというものである。

 この角田氏の説を今回の海戦地図で確認してみると、どこで方位を変えたかにもよるが、少なくともそうすることによって利根4号機が0428に敵艦隊と接触する可能性はあったということが言えると思う。

 怪我の功名にしろ何にしろ、とにかく0428に利根4号機は敵艦隊を発見した。この発見時刻自体は決して遅くはない。問題は知らせてきた敵位置である。そこは利根4号機飛んでいるはずの地点から大きく北へそれている。そしてそれ以上に不可思議なのが、海図上にその位置を書き込んでも誰も不信に思わなかったといわれている、第一航空艦隊司令部、第八戦隊司令部の参謀諸氏である。

 利根にあった八戦隊司令部では偵察員が使用した図面を示し、司令部の海図上にその位置を書き込んだと言われている。第一航空艦隊司令部では小野寛治郎情報参謀が記入し、「彼我の距離200浬」と報告したと言われている。利根4号機が飛んでいるはずのない位置を示されてもおかしいと言うものは誰もいなかったようだ。

 その後0554になって第一航空艦隊司令部から利根4号機宛に「方位測定用電波輻射セヨ」と打電された。やっとおかしいことに気づいたのである。この間1時間30分、敵機動部隊からはすでに攻撃機が発進し、こちらへ向かっていた。

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以上

わかりにくいとは思うが、利根4号機の偵察員はなぜ位置を間違ったのか、焦りもあったのかしらんが、自機の位置を間違えていたんだろうな。ちなみに出て来る元海上自衛隊パイロットY氏とはわしの兄貴のことだ。

 わしがなんで大東亜戦争史に興味をもつか、それは戦の極限の中では裸の人間性がでてくるんだな。特に海戦においては短時間の決戦の中でみんなミスをおかす、錯誤の連続だな。そしてミスの少ない方が勝つ。まあこの原理も南太平洋海戦迄だけどな。小説家の書いた戦国時代の合戦なんぞ読むより、ほんの数十年前の国運をかけた戦争を知る方がはるかに教訓に満ちているんだな。ミッドウェー海戦など質量とも負けるはずがない。よく暗号が読まれて待ち伏せされていたので負けた、などといわれているが、読んでもらえばわかる通り、別に一方的に奇襲されたわけではない。がっぷり四つに組んだんだが、戦い方が悪かっただけなんだな。この負け方には暗号解読なんかほとんど関係ないと思うぞ。要するに、重要な偵察の軽視はいうまでもなく、しょっぱなから全体が緩んでいたんだろうな。