無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10750日

 このブログも毎日書く事が掃除、飯炊きと並び、道になってきたようだな。内容はともかく800字から1000字ほどを必ず書くことに意義があると決めて書き続けているんだが、書く事によって頭の中が整理されて来るという効果もあるようだ。誰かに読んでもらえれば、それはそれで励みにもなるんだろうが、宣伝してまで読んでもらおうとは思っていない。それには責任も伴うからな。今でも毎日2〜3人の方に読まれているようで、恐縮している。パソコンの前に座って、頭に浮かんだ事を書き連ねているだけだが、これは自分の来し方の記録でもあり、行く末への展望でもある。あと0日になったとき、一体わしは何を書くんだろうな。

 昨日久し振りに、相曾誠治著「言霊と太陽信仰の神髄」を読み返したみたんだが、読むたびに新しいことに気が付くんだな。再確認するということかもしれんな。

「日頃から古事記神代巻を声に出して何回も読み、言霊をじゅうぶん耳に注げばだんだん鎮魂状態に入り、自然に正しい霊力がついてきます。鎮魂状態といいますのは、文字どおり自分の魂を鎮めることです。」p132

 おそらくわしもこの部分を読んで、11月3日までに古事記神代巻100回読破することを決意したんだろうが、初心は忘れてしまって、今月にはいって、なんとなく惰性で読んでいるというような感じになっていた。言霊を耳に注ぐというすばらしい行為をおろそかにしてはいかんし、読むにしても、常に言霊を耳に注いでいるんだと意識し続けなければならんということだろうな。今25回目を読んでいるが、回数にとらわれることなく、一文字一文字を大切にして読んでいかんといかんのだな。

 二男の嫁の出産予定日の11月2日が近くなり、27日からは嫁の母親が来てくれる事になっている。わしの家からは車で高速を使っても3時間程かかるので、うちに来て産んでもええし、自分の実家に帰って産んでもええよと言うたんだが、今かかっている病院で産みたいというんで、母親が仕事を休んできてくれることになったわけだ。最近は立会出産とか、父親が出産に関与するのが当たり前のようだが、わしなんか、長女が産まれそうだというんで仕事休むつもりでいたら、おふくろに、「あんたが居たって何の用事もないんじゃから仕事にいっといで。」と言われて仕事に行かされたんだがな。

 

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