無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10745日

 毎日を淡々と過ごせる事を期待して床についても、朝になり目を覚ましたら、頭の中はすでにガラクタだらけで、淡々とした状況とはほど遠い自分に気が付き、ああまた今日も一日これらとのつきあいが始まるのかと、ため息をつく日がなんと多い事か。外界とほとんど接触を断って7ヶ月が過ぎようとしているが、こんなことの繰り返しでいいのかと疑問を感じる毎日ではあるな。

 明日死ぬ事があっても悔いの残らない人生を生きようなどというようなタイトルの本があるようだが、このような本の著者は何を考えているんだろうな。こんなこと100人中100人ができないだろう。読者の感想などをみると、この本に巡り会って悩みが解消したとか、みんなに読んでほしいとか書いてあるが、聖人君子じゃあるまいし、時々刻々変化し続けている、暴れ馬のような意識の流れを一冊の本でコントロールできるわけがないだろう。HowTo本など読むだけ時間と金の無駄だということがわからない人が買うんだろうな。所謂養分かな。

 まあ人の事はどうでもいいんだが、最近夢がやたら複雑で、夢の中で一生懸命理屈を考えているんだが、さっぱり結論がでないんだな。そして目が覚めたときは考えていた内容をはっきり覚えている。暫くすると忘れてしまうんだが、直感的なイメージとしては、支離滅裂という感じだな。わしの中に何か問題があるのか、一度ノートに付けてみるのもいいのかもしれんな。35年前に、夢の中で石山寺多宝塔を彷徨った頃とは、夢の内容が全く違うので、わし自身も少しは安定したんだろうな。35年前は頭がおかしくなるんじゃないかと心配して夢の記録をやめたんだが、もうその心配は無用だろう。

 戦争とかの特殊な状況ではなく、普通の状況で、死を受け入れて、従容として死んでいくことができるかどうか。これはわしにとっても人生の大きなテーマの1つなんだが、本当にそんな心境になれるのかどうか。或は死の瞬間というのは既に普通の状態ではないのか。おふくろの死の瞬間は残念ながら立ち会えなかったが、親父の死の瞬間は立ち会う事ができた。瞬間光を取り戻した親父の眼に映ったものは何だったのか。その場にいたわしと女房だけだったのか。そしてあの瞬間には死を受け入れていたんだろうか。あと10745日たてばわしも体験することになるはずなんだが、それまでにきちんと準備をしておきたいものだな。