無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10743日

 過去の失敗体験や恥ずかしすぎて忘れてしまいたい事、ものすごく腹が立ったこと、嫌な思いをしたこと、このようなことを無理矢理思い出させようとする、もう1人のわしが居るんだな。一体こんなことを思い出させて何が楽しいんかしらんが、何かの拍子に、次から次へとわき上がってくるので、防ぐ事ができない。こういう経験はおそらく誰にでもあるんだろうと思うが、仕事で時間に追われているとすぐに消えて行くんだろうな。わしのように、生活すべてを自分の裁量でやっていると、時間があるもんだから、ついつい反応して考えてしまうんだな。どうせ思い出すなら、楽しかった事や嬉しかった事のほうが前向きだと思うんだがな。わしはこんなのも鬱の初期症状ではないかと考えている。わしはよくわかった上で自分の様子を客観的にみていると思っているんだが、はたしてどうなんだろうな。ときどきわからんことがあるからな。あぶないあぶない。

 わしは最近、そういう時には念仏ではないが「今日を生きる」と口に出して言うようにしている。昨日でもない、明日でもない、今日を生きる。過去でも未来でもない、今日を生きる。朝め覚めて、夜になったら寝る、というその一日を確実に生きるという決意を、事あるごとに「今日を生きる」唱えることによって確認するということだ。今日を生きるという言葉自体は、使い古された陳腐な言葉かもれんが、口に出すという事は自分の声が自分の耳に届くということで、ただ考えたり、読んだりするだけでは得られない、何かがあるような気がするんだがな。

 今日を生きるで思い出したんだが、わしが子供の頃、「今日を生きる」という30分のドラマをやっていたんだな。うちがテレビを買った頃だったから昭和35年くらいかな。親父がよく見ていたのでわしも一緒に見ていたが、たしか主人公の医者がいろいろ悩んでいたように記憶している。主演は小山田宗徳で、今から思えば、おそらく左巻き系のドラマだったんだろうな。親父なんかも戦前の日本を悪く言う事はなかったが、東条英機は許せんと言っとったから、気が付かないうちにGHQの洗脳工作に呑み込まれていたのかもしれんな。