無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10738日

 わしらが小さいときは、わしの住むまちでも時々大相撲の興行があった。九州場所のあと、東京に帰る途中で、誰か興行主が呼んでいたんだろうな。そのうち2回はわしの家の近所の公園や大学グランドで行われたのではっきり覚えている。これは昭和34年の12月、大学グランドで行われたときのことだ。その朝、わしらが小学校へ通う道は凍って霜柱が立っていたが、まげを結った裸足で浴衣一枚の大男が連れ立って歩いていた。わしは相撲取りをみたのはその時が始めてだったんだが、その大きさに度肝を抜かれたな。しかもこの寒いのに裸足で浴衣一枚とは、この人達がわしらと同じ人間とは思えなかった。相撲取りとはこんなにすごい人達なのかと圧倒されたな。

 午後にはあの大横綱大鵬が、稽古の後、近所の銭湯に来るというのを聞いて、おふくろや近所のおばさん達と一緒に道端に立って来るのを待っていた。大学の門から銭湯まで200mくらいあるんだが、その間途切れる事無く人がいたから、結構な人数がいたんじゃないかな。暫くすると5〜6人の付け人を従えた大鵬がゆっくりとこちらへ歩いて来た。あちこちで歓声があがり、まるで役者をみるような感じだったな。わしも漫画雑誌で見て、顔は知っていたが、実際に見るとその美しさや存在感に、子供ながら圧倒されたな。今から思えば、あれで20歳くらいだったんだからたいしたもんだよ。

 生きていくのに一生懸命のあの時代に、大相撲の興行をいったいどういう人達が見に行っていたのか知らないが、少なくともわしの周辺で、切符を買って見に行くという奴はいなかったな。それでもわし等も見てみたいので、大学のグランドに行ってみると、今と違って囲いも何も無くて、見ようと思えば見えるんだが、土俵から遠いのでよくわからないんだな。わしがうろうろしていると、うちの隣に住んでいたおばさんと出会った。そのおばさんが、花道で見るならずっと前の方に行ってみてもいいよと言って、そこにいた人に話してくれた。ずっと大きくなって知ったんだが、このおばさん、県会議員のお妾さんだったようで、顔が利いたのかもしれんな。わしも半信半疑で前の方に行って見たんだが、本当にここにいていいのか気になって、のんびりと見る事は出来なかった。しかし、とにかく老若男女、大相撲の人気はすごかったな。

 今はテレビで大相撲を見る事も無くなったが、わしが興味を無くした原因は国際化だったな。ハワイ勢あたりまではまだ許せたが、今のように外国人が増えるとちょっとな。別に外国人が相撲をとってもなんの問題もないんだから、それで良いと思う人は見たらいいし、つまらんと思えば見なければ良いだけの事だ。だからわしは見ない。少なくとも、わしの中では大相撲が、子供に時に感じたあの圧倒的な存在ではなくなったということは確かだな。