無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10737日

 例のタカタエアバッグのリコールで助手席側を取り替えるために午後からHONDAcarsに行って来た。2ヶ月程前に運転席側を取り替えたばかりなので、一度にやってくれよとは思うんだが、HONDAの人も小出しにでてくるんで困るというようなことを言っていたな。洗車までしてくれるんで、一日家にいるわしにとってはありがたことだがな。

 その引きこもり生活もいよいよ今日で満期を迎え、予定通り無事終了という事になる。4月から10月まで7ヶ月間、朝6時頃から零時まで、外へ出る事も無く、掃除、飯炊き、太陽参拝、祝詞奏上、7000歩の歩行、古事記神代巻朗読と毎日毎日繰り返してきて、別に何が変わったということはないんだが、強いて言えば、ちょっと物忘れがひどくなったり、少し髪が薄くなったような気がするということかな。

 この7ヶ月で飯炊きは上手くなった。今日なんかも酢豚、みそ汁が30分ちょっとで出来たし、だいたい何でも味付けはできるようになったな。これで万が一、女房が先に死んでも食べる事で困るという事はないだろうな。わしはこれが年寄りの自立の第一歩だと思うぞ。自分でおいしく作って、それをおいしく食べるということができれば、人生もより一層楽しくなることは間違いないだろう。

 あと10784日で書いたように、この7ヶ月はわしにとって1つの実験でもあったんだな。親父がおふくろの死後、1人で引きこもってしまった結果、老人性鬱になったんだが、親父にどんな変化があったのか、どんな過程を経てそうなるのか、自分で試してみたというわけだ。確かに途中で、独り言が増えるとか、自分の中に様々な自分がいるような気がして、いろんな思考が次から次へわき上がってきて、集中できないとか、また、夢のこともあったし、5月以降このブログにも書いて来たように、自分でもあれっと思う事はいろいろあったな。1人で精神の平衡を保つという事はできないことはないが、非常に困難だということはよくわかった。この経験も、いずれ役にたつことがあるだろう。

 10月31日で引きこもりは終了するとはいえ、死への準備はあと10737日、終わる事は無い。最期に従容として死を迎えるためにはどうすればいいのか。相曾誠治氏、異境備忘録、古事記祝詞と知りたい事はいくらでもあるが、それらを通して一歩でも前に行けるように、明日からも努力するしかないな。

 ちなみに10月31日までに古事記神代巻100回読破という目標は残念ながら達成できなかった。結局27回だったんだが、来年4月までにはあと73回読破したいもんだな。