無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10723日

 長女が産まれたのが昭和58年11月だった。病院で陣痛促進剤を使ったのでその日のうちに産まれるという事はわかっていたんだが、その朝おふくろはわしに「男がおっても役に立たんのじゃから、仕事にいっといで。産まれたら電話してあげる。」と言ってわしを仕事に行かせた。おふくろの世代はそうだったんだろうなと思ってそうしたんだが、ちょっと腑に落ちんところはあったな。結局午後2時頃電話があったんだが、其の時も、母子ともに元気なので、帰るのは仕事が終わってからでええからと念をおされたな。しかし今から思えば、やっぱりこれはおふくろの勇み足ではないかと思うんだがな。その後のわし等夫婦、特に女房に対する接し方を見て来て感じるのは、産まれて来た子はわしらの子供であるというよりも、この家の孫だという意識が強すぎたんじゃないかということなんだな。

 或は、わしの兄貴夫婦に子供がなかったので、兄嫁に対する遠慮がそうさせたのかもしれんな。とにかく、わしの女房やその実家には厳しかったが、兄嫁やその実家には甘かったのは事実で、女房は文句なんかは一言もいわなかったが、つらいこともあったみたいだな。年に1回か、2年に1回位しか帰ってこない兄貴夫婦と、同居しているわしら夫婦とでは差がでるのは当然といえば当然なんだろうが、嫌な事もいろいろあったな。しかし、厳しいとこはあったが、わしらの生活も随分助けてもらったし、3人の子供は、それはかわいがってくれたので、わしも女房も有り難いことだったと感謝している。人間、いつかは歳をとり体力も気力も弱ってくるもので、厳しかったおふくろも、最後は女房を頼りきって、ありがとうといってあの世へ旅だって行った。

 こういうこともあって、わしら夫婦は、ある面は教師として、ある面は反面教師として親に学んだことを大切にして、子供や孫に迷惑をかけないよいうにやっていこうと話している。