無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10717日

 最近、わしと同期に船乗りになった連中が定年になり、たまに会うようになったが、意に反して、若い時に描いた船乗り人生とはだいぶ違った人生を歩んで来た者も多いみたいだな。わしは1年ちょっとで見切りをつけて足を洗ったんで、この業界とは全く縁がなかったんだが、昭和48年頃に300円位していたドルが80円位までになったんだから、普通に考えたら、海外相手に仕事をしている外航海運会社がもつわけないよな。そこで日本人船員を減らして、人件費の安いフィリピンやインドネシアの船員を使ったり、税金の安いパナマとかリベリアに船籍を移したりして様々な円高対策をとってきたようだった。それでも、わしらが卒業した時、大手6社といわれていたのは日本郵船、大阪商船三井船舶、山下新日本汽船、ジャパンライン、川崎汽船、昭和海運だったが、今在るのは日本郵船商船三井川崎汽船の3社なんだから、激動の時代だったんだろうな。

 わしが乗っていた石油メジャーのCという会社は、本社はサンフランシスコにあったが、わしが乗る以前から外国人船員を雇っていて、日本人を雇う前はイタリア人船員で、その前は北欧の船員だったと聞いている。わしが乗った頃はすでに日本人は引き上げることが決まっていた。わしらが最後の乗り組みになる予定で、その後を埋めるのは韓国人だったようだ。要するに、通貨が高くなると安い国の船員を使うということなんだが、こんなことは多国籍企業は日本がやる何十年も前からやっていたんだな。

 当時1ドル300円くらいしていたと思うが、月収約1000ドルだったから月に30万円。当時月30万と言えば日本では大金だったが、今なら10万円にしかならないんだな。たった月1000ドルで日本人船員が雇えれば、アメリカ企業は大儲けだっただろう。その頃の日本人船員の役割を果たしているのがフィリピン人船員やインドネシア人船員ということになるんだろうが、ここもそのうち高くなるだろう。しかしこんなことがいつまで続くんだろうな。人件費削減でしか利益がでない業界には良い人材は集まらなくなり、結果また業績が悪くなるという負のスパイラルに、既に陥ってしまっているんじゃなかろうかな。